ストラヴィンスキーの「春の祭典」。

 この「ハルサイ」、ふだんクラシックに親しんでいないでも、一目ぼれしてしまうことが多い曲のようだ。といっても、そういう人を身近で見たのは2人だけだけど……

  私が「春の祭典」を初めて耳にしたのは1976年の11月。高校1年生のときだった(岩城宏之/N響のライヴの放送)。しかし最初は旋律線がよくつかめなかったし、魅力的にも感じなかった。

 ところがそのころ、学校帰りのバスで、中学のときに通っていた塾の先生に偶然会った。
 なぜそのような偶然が起こったかについては、たいして複雑な話ではないが、ここでは省略する。別段おもしろい話ではないから。
 
 その先生(といっても、大学生のバイト)は、私に「『春の祭典』聴いたことあるか?あれはすごい曲だよな。あれはいい」と、興奮した牛のように語った。確かに「すごい曲」ではあるけど、私には魅力がわからなくて不思議に感じた。
 
 そのあと、ショルティ/シカゴ響(1974年録音)のLP75d90b4f.jpg を購入、その演奏を聴いて初めて「すごい曲だ」と魅力を感じたのだが、その先生のような、「目からウロコが落ちる」というほどではなかた。私の目にはうろこはなかったのだ。

 ところが、似たような経験がもう一つ起こった。勤めてからのことだが、ジャズ好きの先輩にたまたま「春の祭典」のCDを貸したら、その人、一発でその虜になってしまった。彼は翌日にはCDを購入してしまった(店まで連れて行かれた)。
 そこで思ったのは、従来のクラシックの概念で接している私より、そうでないジャズやロックが好きな人の方が、この曲を自然に受け入れられるんじゃないか、ということであった。北島三郎が好きな人はどうかは知らないが……

 さらに、ある本でこんな記述に出会った。著者は作曲家の服部公一。彼がある小学校の教師から話を聞いたくだりだ。

 「小学校3年の音楽の時間にね、モーツァルトの『ニ長調のメヌエット』を鑑賞教材に使ったんですよ。ところが、ちょうど昼休みでせいいっぱい遊んできた直後の授業だったものですから、落ち着いて聞いてやしない。ガヤガヤ、ガタガタ、どうしようもないんです。そこで毒を以って毒を制すってやつで、景気のいい曲をかけてやろうってんでね、手元にあった『春の祭典』のいちばんにぎやかなところを、予告なし突然かけてやったんですよ。そしたら、一瞬きょとんとしてましたけど、そのあとがたいへんです。子供たちがみんな手を振ったり、足踏みしたりして、ゴーゴーふうのもあるし、ツイストみたいなのもあるし、みんなすっかり音楽にのっちゃって踊ってるんですよ。いやあ驚きました」

 御承知のように(かどうかは知らないが)、このバレエの初演時には音楽に対してすごい騒ぎが起きた。その様子をストラヴィンスキー自身がこう書いている。

 「『春の祭典』の初演が騒ぎを伴ったことは,誰もが知っているはずだ。だが奇妙に聞こえるかもしれないが、私自身、こんな大騒ぎになろうとは思っていなかった。オーケストラのリハーサルに来た楽員たちの反応には、全くそんな気配は見えず、舞台上の光景にも大騒ぎの原因になりそうなものは見当たらなかった。踊り手たちは数ヶ月も練習を続けており、音楽と無関係な動きをすることはあっても、自分たちの踊りの意味は心得ていたからである。……音楽に対する穏やかな抗議は、公演のそもそもの始まりから聞こえてきた。そして開幕後、長いお下げ髪の内股の少女たちが跳ね回る『乙女たちの踊り』の場面で、嵐が巻き起こった。『黙れ』という叫び声が私の後ろの席から聞こえた。……しかし騒ぎはやもうともせず、数分後、私は怒りに震えながら客席を出た。私はオーケストラの傍の右側の席に座っていたが、ドアを荒々しく閉めたのを覚えている。私がこんなに怒ったことはなかった。この音楽はなじみ深いもので私は大好きであり、まだ一度も聴いたことのない人たちがなぜ事前に抗議したいと思うのか、私には理解できなかった。怒りながら舞台裏に来ると、ディアギレフが場内を静めようと最後の努力をしている最中で、しきりに場内の灯りを点滅させていた。公演が終わるまで私は舞台のそでに立ち、ボートの舵取りさながら、椅子の上に立って踊り手に大声で拍子を教えているニジンスキーの背後で、彼の燕尾服の端を握っていた」
 
 音楽の最初の、ファゴットが高音部を吹き終わった時点で笑い声が起こり、やがてあちこちでヤジや口笛が広がっていったという。

 バレエの筋は、異教徒たちが太陽の神イアリロにひとりの処女をいけにえに捧げるというもの。
 音楽は、変わりまくる拍子、すさまじいパワー、不協和音といった特徴を備えている。旋律もそれまでの既成概念とは異なる。
 今では、そんな音楽に何の抵抗もなく感銘する人もいるのだから、不思議な感じもする。

 ところで私に「ハルサイ」の魅力を教えてくれたショルティ/シカゴ響の演奏だが、吉松隆は指摘している。

 「ハズしているといえば、70年代にシカゴ響を振ったショルティ盤。ダイナミックなサウンドと圧倒的なスピード感でこの曲の屈指の名盤のひとつだが、マニアの間では『トランペットのポカ付きハルサイ』として有名なのだ。というのも、可哀相に『誘拐』のシーンで3番トランペットが一瞬出遅れるポカをやっているわけで、それを除けば圧倒的なシカゴ響のサウンドも相まった熱っぽい名演盤。ショルティらしい『あんまり頭を使わない力技のダイナミズム』の代表盤でもある。90年代になってからコンセルトヘボウを振った新録音のライヴ盤も出たが、やはりシカゴ響でのこの若々しくも粗っぽい熱演は越えられない」(ONTOMO MOOK「指揮者のすべて」音楽之友社)

 「誘拐」の場面は、弱音器をつけたトランペットが細々としたパッセージを吹くところだ。
 ちょっとズレても解らないようなところではあるが、それにしても気づかない私はマニアではないようだ。
 なんだか嬉しいような寂しいような……
 「この盤ばかりを聴いていたから気づかなかったのだ」と言い訳をしたいところだが、この指摘を読んでから他の演奏と聴き比べてみても「あっ、ここだ!」というのがよく解らない。

 ああ、私を誘拐してぇ~ん(←秘技:ごまかし)。

 その「ポカ付きハルサイ」のCDはデッカ-UCCD3754(写真は旧盤のもの)。
 すさまじい歯切れの良さ!「いいじゃないのお客さん、ちょっと失敗したって。切れが大切よ」って言いたくなる。
 カップリングはムソルグスキー(ラヴェル編)の組曲「展覧会の絵」(1980年録音)。タワーレコードで扱っており、1,200円。
 
 ところでこの曲の原題は、Le Sacre du Printemps。「春の祭典」というよりは「春の戴冠式」の方が原意に近いらしい。
 プランタンと言えば、もうなくなって久しい。
 新札幌の“デパート”である。パリの香りがすると言われた“百貨店”である。
 銀座にはまだあるが、新札幌のものは「カテプリ」に変わった。カテプリのオープンのときのキャッチフレーズは「逢いたくて、咲きました」だった。どうでもいいけどね。
 
 「春の祭典」が「現代の古典」と言われるようになって久しい。
 そんな私にとっても、まったく抵抗なく、むしろ大好きな作品になって久しい。
 私も古典になりつつあるのだ!(威張るなって!)