村上春樹の「羊をめぐる冒険」のなかには、以下の27be10e9.jpgような描写がある。

 「列車は二両編成で、全部で十五人ばかりの乗客が乗っていた。そしてその全員が無関心と倦怠という太い絆でしっかりと結びつけられていた。(中略)太った中年の女はスクリャービンのピアノ・ソナタに聴き入っている音楽評論家のような顔つきでじっと空間の一点を睨んでいた。僕はそっと彼女の視線を追ってみたが空間には何もなかった」(講談社文庫・下巻100ページ)

 すばらしいなぁ、この表現。
 確かにスクリャービンの音楽、特に後期の作品は鼻くそをほじりながらとか、江戸揚げを食べながら聴いてはいけないような圧力を感じる作品である。

 スクリャービン(1872-1915)は、同じロシアのラフマニノフ(1873-1943)とほぼ同時期に活躍した作曲家であり、二人とも驚くほどの才能を持ったピアニストである。
 ラフマニノフは同じパターンから外れることなく作品を書き続け、スクリャービンは晩年に精神に異常をきたし、わけの解らない音楽を書いた神秘主義者として没したのであった。
 「私の『第10ソナタ』は昆虫のソナタである。昆虫は太陽から生まれる……太陽の接吻である……物事をこのように観察するとき、世界観はなんと見事に統一されることか」といったことをスクリャービンは述べている(ショーンバーグ「大作曲家の生涯」共同通信社より引用)。やれやれ、である。

 スクリャービンは1903年の交響曲第3番とピアノ・ソナタ第4番から、作曲上のあらゆる約束事を無視し始めたと言われ、特にピアノ曲はひじょうに複雑になった。
 正直なところ、私もこの「神秘時代」に突入した彼の作品は、あまり恋心を抱けない。

 そこで、今回はそれ以前の、しかも交響曲について。
 交響曲第1番と第2番。これらの作品は、鼻くそをほじりながらでも、よだれを垂らしながらでも、貧乏ゆすりをしながらでも聴ける。空間の一点を睨まなくてもよい。
 交響曲第1番ホ長調Op.26(1899-1900)は6つの楽章から成る声楽(メゾ・ソプラノとテノール独唱、合唱)つきの作品。全体を通じて穏やかで愛らしい旋律が続く。終楽章ではスクリャービン自身が書いた短い詩による芸術賛美が歌われるが、だからといってこの曲を「芸術賛歌」というタイトルで呼ぶのはちょっと変な気がする(そういうCDもあるのだ)。
 一方、第2番ハ短調Op.29(1901)は、私がけっこう好きな類の曲である。とにかく、終楽章(第5楽章)の堂々とした音楽がカッコイイのだ。また第3楽章は、グリエールの第3交響曲の第2楽章のような雰囲気で、鳥たちがさえずり合うような美しい曲。でもやっぱり、終楽章がカッコイイ!
 なお、彼の交響曲(後半の作品はむしろ交響詩である)7adee916.jpg は5番まであるが、よく知られているのは第4番Op.54「法悦の詩」。神秘和音を用いて人間の精神的・肉体的エクスタシーを表現したものである。言っていることがよく理解できないが……
 ついでにいうと、第3番は「神聖な詩」、第4番が「法悦の詩」、そして第5番(オーケストラのほかに、ピアノ、合唱、投光オルガンが用いられる)は「火の詩」という名がついている。

 話を戻すと、私が聴いている第1、2番のCDはインバル/フランクフルト放送響のもの(フィリップス454 271-2。輸入盤。国内盤はフィリップスのPHCP20157-8)。このCDには1番から4番までが収められている。1978年から79年にかけての録音。タワーレコードでも新星堂でも在庫がないが、ファミマコムで扱い中。

 ところで、ヴォルコフ著の「ショスタコーヴィチの証言」にはスクリャービンについて次のような記述がある。

 「ある講演のとき、ソレルチンスキイはスクリャービンのことを話していた。彼はスクリャービンのことがそれほど好きではなかった。スクリャービンの管弦楽法の知識は豚がオレンジを見分ける程度のものだ、というわたしの意見に彼は同意していた。わたしの見るところ、スクリャービンの交響詩のすべて、『神聖な詩』にせよ、『法悦の詩』にせよ、『火の詩』にせよ、いずれもちんぷんかんぷんである」

 う~ん、あのショスタコ先生にしてもそうなのね。もっとも、この本は偽書であるという説が有力になっているけど……。それにしても、オレンジを見分けることができる豚って、すごいとも思うんですけど……

 へんてこな世の中だから、スクリャービンの作品が再評価され脚光を浴びる日も近いかもしれないと、個人的には無責任に思っている。