バッハのブランデンブルク協奏曲(全6曲)を耳にして、果たして魅了されない人がこの世にいるのだろうか?
私はこの曲ほど親しみやすく、魅惑的な旋律にあふれ、水晶の結晶のように美しい緻密さを兼ね備えた作品はないと思うのである。
村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」 (新潮文庫)では、この世界を生きている主人公の“私”が、まもなくこの世に別れを告げなければならない(それは死ではない)前に買ったカセット・テープの中に、ブランデンブルクも入っている。演奏(指揮)はトレヴァー・ピノックのものだ。
ピノックの演奏ということになれば、それはピリオド演奏の、おそらくはシャープなものだろう。人間が最後に耳にできる音楽に、ブランデンブルクを入れていることは、なんとなく解るような気がする。
私はクラシックを聴き始めて1年ほど経ったとき、NHK-FMで流れていたこの協奏曲の第2番と第6番を耳にした。
いったいなんだ!と思った。というのは、恐ろしく魅力的だったからだ。
そのすぐあとに、札響で第5番を聴くこともできた。そのときの印象も「何という音楽だ!」というものであった。初めて耳にしてもまったく抵抗感がない。それどころか、ずっと前から慣れ親しんでいるかのような、懐かしさと新たな刺激(この矛盾がたまらん!)、そして温かさがある。
その後、当時廉価版で新発売されたメニューイン指揮バース音楽祭管弦楽団のLPを取り 寄せで購入した。東芝のセラフィム・レーベルのもの。2枚組で2,400円だった。1959年の録音と、当時でさえすでに録音は古くなっていた(だから廉価盤で再発売されたのだが)。LPジャケットに載っていた写真のメニューインは若々しく、何も知らない乙女のような私は「メニューインって若手なんだ」と思ってしまったが、実際にはこのときすでにけっこうなおじいさんになっていた。
演奏はもちろんモダン演奏。とはいっても、あの頃はピリオド演奏なんて誰も騒いでいなかったのだ。
その後、もちろんピリオドのものも含め、私はいろいろな演奏でブランデンブルクを聴いてきたが、すっかりメニューインの演奏が耳に焼き付いてしまっており、ほかのは拒食症気味になってしまった。いかんいかん。洗脳されている……
しかし、モダンによる伸びやかな演奏はなかなかである。第2番のピッコロ・トランペットの響きなんか脳みそが凍傷になりそうになるくらい、イケイケである。よく意味が解らないが……。
この演奏のCDを長年探し求めてきたのだが(そもそもCD化されているかどうかも解らずに探し求めたのだ)、札幌のPALS21でついに発見できたときは、嬉しさのあまり、「もうどうなってもいい。ビール500ミリリットルを一気飲みしてもいいくらいだ」という気持ちになったものだ(←まったく自分に苦痛を課していない)。
そのCDは、今でも入手できるかどうか解らないが(タワーレコードのネットショップでは発見できなかった)規格番号は、EMIのCDE 7 67760 2(1~3番)とCDE7 67761 2(4~6番)である(輸入盤。分売)。
「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」では、買ったブランデンブルクを聴きながら、“私”が助手席に乗せた“図書館の女の子”と会話する場面がある。
《「『ブランデンブルク』ねっ?」と彼女は言った。
「好きなの?」
「ええ、大好きよ。いつも聴いているわ。カール・リヒターのものがいちばん良いと思うけど、これはわりに新しい録音ね。えーと、誰かしら」
「トレヴァー・ピノック」と私は言った。
「ピノックが好きなの?」
「いや、べつに」と私は言った。「目についたから買ったんだ。でも悪くないよ」
「パブロ・カザルスの『ブランデンブルク』は聴いたことある?」
「ない」
「あれは一度聴いてみるべきね。正統的とは言えないにしてもなかなか凄みがあるわよ」
「今度聴いてみる」と言ったが、そんな暇があるものかどうか私にはわからなかった」》(下巻262~263p)
私にとってはやっぱりメニューイン。新しいところでは……なんだろうなぁ。
カザルスのブランデンブルクって、私は知らない。どんな凄みなんだろう?
新館入口(2014.6.22~)
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