岩城宏之の「音の影」(文春文庫)は、各章が有名な作 曲家に関する記述になっており、名前のイニシャル順、つまりAから順に配置されている。
岩城宏之の書く文章は、いつもそうだが、実に平易である。
ちょっと読むと、文章が下手なように見える。しかし、それは大間違いで、読みやすいように配慮されているのであって、このように易しく解りやすく書くことは、かなり文章上手でなければできないことだろうと思う。
なお、この本は「名曲解説」とは違う。しかし、岩城宏之がそれぞれの作曲家にどういう気持ちを抱いていたかがよく解る。
Bで始まる作曲家は、バッハ、ボッケリーニ、ベルリオーズ、ベートーヴェン、ブルックナー、ブラームスが取り上げられている。
バッハの章では、武満徹の話が出てくる。
武満が死ぬ前に最後に聴いた音楽は、FM放送で流れた「マタイ受難曲」であった、という話である。バッハに関してというよりも、岩城はここで武満のことを多く書いている。
岩城は1976年12月の札響定期で、全武満作品のプログラムを組んで、話題となった(私はこの演奏会には行かなかった)。その後も、札響は武満作品をよく取り上げ、武満も札響の演奏を気に入っていた。映画「乱」の音楽を武満が書いたとき、武満は演奏に札響を指定したほどだ。
武満徹は(1930-1996)ほとんど独学で作曲を学び、日本の生んだ最も優れた作曲家として位置付けられている(事実、彼の死後1年間に世界中で彼の作品が1000回以上も演奏されたそうだ)。
しかし、正直なところ私は武満の音楽が苦手である。傑作とされる「ノヴェンバー・ステップス」にしても、良いと感じたことがない。
ただ、彼がTVドラマ「波の盆」のために書いた音楽は好きである。同時に、忘れてはならない作品でもある。
もう5年以上前の話だが、当時私が勤務していた部署に、心に病をもったおじさんがいた。入社したときは成績優秀。しかし、あるときにプッツンし、その後は閑職。一日中、机の前でボーッとしていて、楽しみは昼の弁当だけ、という状態だった。
私がいたときは暴れるなどの極端な症状はおさまっていたが、それでもしばしば不必要にハイになった。不思議なことに、かなり年は離れていたのに、彼は(言葉は悪いが)私をとても慕っていた。
彼はTV好きで、私が札響がシャンドスから出したCD を買ってきて、武満徹(という人)の話をしてあげると、ピンッと反応した。私が言った「波の盆」という言葉にだ。
彼はそのドラマを観たことがあり、とてもよいドラマだったと私に話した(その話はしばしば筋が通らない箇所があったが)。そこで私は、彼に「波の盆」をカセット・テープに録音し、プレゼントした。
クラシック音楽にはまったく無縁と断言できる人だったが、その音楽を彼は気に入り、いつも家でテープを聴いていたらしい(彼にとってはドラマの音楽なのだ。クラシックと位置づける方がおかしいのかも知れない)。
「波の盆」(1983)は、日系ハワイ人を主人公とした、太平洋戦争の間の一世と二世の世代間の対立を描いているという。このCDで指揮をした尾高忠明は「こんな感動的な曲があるだろうか。レコーディング中、私は涙がでた。第一ヴァイオリン奏者の瞳にも涙が浮かんでいた。私の願いは、武満によって創り出されたこの特有なロマンティクさと感動的な主題を多くの人に知ってもらうことだ」と寄せている。
そのおじさんは、その2年ほどあと、突然亡くなった。もう一つの持病であった肝臓の病状が進んでいたらしく、ある晩に血を吐いてあっけなく亡くなってしまった。
定年まであと4年という、現役での死だった。
葬儀のあと、奥さんが私のところに挨拶に来て言った。
「主人はあのテープをよく聴いていました。もらったことを子供のように喜んでいました。今日、テープもお棺に入れさせていただきました」
私にとって「波の盆」は、彼の追悼音楽となった。
曲は6つからなっており、それぞれのタイトルは「波の盆」「ミサの主題」「失われた手紙」「夜の影」「ミサとコウサク」「フィナーレ」である(私が持っているのは輸入盤のため、固有名詞の漢字表記が解らない)。
CDはシャンドスのMCHAN9876(国内盤)。タワーレコードのネット通販に在庫あり。2,730円。あらためて書いておくと、指揮は尾高忠明、オケは札幌交響楽団。他に、武満の「乱」、尾高惇忠の「オルガンとオーケストラのためのファンタジー」、細川俊夫の「記憶の海へ~ヒロシマ・シンフォニー」が収録されている。録音は2000年。
人が姿を消すときは、あまりにもあっけない……
新館入口(2014.6.22~)
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