ベートーヴェンの「ピアノ、ヴァイオリンとチェロのためc3ba585a.jpgの三重協奏曲ハ長調Op.56(1803-04)は珍しい形の作品である。
 F.J.v.ロプコヴィツ侯爵に献呈され、1808年にウィーンで初演されたが、作曲動機についてははっきりわかっていない。しかしながら、ピアノのパートはルドルフ大公が弾くことを考えて書かれたといわれている。

 この曲でベートーヴェンは、古いコンチェルト・グロッソの形式を自分流に消化しようとしたのだろうが、成功作とはならなかった。宇野功芳氏に言わせれば「彼のシンフォニックな作曲態度によって、むしろオーケストラ・パートの方が充実していて聴きものである」。確かにそう思える。

 また、岩井宏之氏によれば(岩城宏之じゃないですよ)、「3つの独奏楽器がそれぞれ自己主張しながら、オーケストラに対立するという考え方が示されていて、古典派の協奏曲の枠を破って新機軸を出そうとする意欲は明らかである。しかし楽想に生彩がなく、しかもベートーヴェンが得意にした楽想の展開も見劣りするにとどまった。3つの独奏楽器を対等に発言させるのは、ベートーヴェンの力をもってしても予想外に困難だった」のである。

 さて、楽聖の失敗作とも言える三重協奏曲だが、演奏はというと、私はカラヤンが指揮したものを聴いている。この演奏では「オーケストラが聴きもの」という意味がよくわかるのである。

 ところでカラヤン。
 私はカラヤンを嫌っているわけではないが、何となく避けている。
 うまくいえないが、彼の演奏にはどこかとっつきにくいものがある。高貴すぎて近づきがたい。でも、近づいたらけっこう性格が悪かった。そんな美女のイメージがある。

 先日紹介した、中川右介著「巨匠たちのラストコンサート」1da72598.jpg (文春新書)のカラヤンの章には、次のように書かれている。

 《カラヤンほど毀誉褒貶はなはだしい指揮者はいない。
 とくに、クラシックの熱心なファンほど、カラヤンを蔑視する。カラヤンを否定することこそが、真のクラシックファンへの第一歩だと言っても過言ではないくらいだ。帝王と呼ばれていたが、その帝王を盲目的に崇拝しない点において、日本のクラシックファンは民主的に成熟していたとも言える。
 カラヤンを批判する際の常套句は、前述の「商売人」にくわえ、演奏論としては、「上辺だけの美しさ」「人工的な美」「磨き抜かれてはいるが、冷たい」「演出過剰」「底が浅い」「精神性に欠ける」といったものだ。それらをまとめて、「整形しまくり、さらに厚化粧な女優みたい」だという評も読んだ記憶がある。
 しかし、そうなのだろうか。カラヤンを中心にクラシックを聴いてきた者のひとりとしては、こうした批判は、そのままカラヤン賛辞に解釈できる。
 あれだけ美しい「上辺」は他にない。あれだけ「人工的」な美しさが、他の誰に可能だというのだ。あれ以上磨き抜かれた演奏はない。演奏者が熱くなっている演奏は、聴くほうはしらけるだけなのだから、そんなものよりは「冷静」な演奏のほうがいい。「演出過剰」というが、他の指揮者に演出能力がないだけだ。精神性が深いか浅いかなんて、演奏から分かるはずがないのだから、美しければそれでいいのだ――》

 なるほど。みごとな指摘。 
 でも、私の場合は、こんなにきちんとした決意があってカラヤンを敬遠しているのではない。蔑視もしていない。「アンチ・カラヤン」論者の多くはフルトヴェングラー信奉者だとも書かれているが、私はフルヴェンの演奏を耳にしたことがない。
 ただ、なんとなく相性が悪いのだ。

 中川氏はしかし、次のように続ける。

 《実は、カラヤンもまた、レコードとコンサートとでは、まったく異なる人なのだ。そう多くはないコンサートのライヴ映像や、コンサートの放送音源のライヴ録音を聴けば、熱い演奏をしているのに驚く。
 カラヤンにとってレコードはリハーサルの一部でしかない。あくまで、コンサートやオペラの本番こそが、真の演奏である。
 その生の演奏に接する機会の少ない日本のクラシックファンの多くは、レコードという「カラヤンにとってのリハーサル」だけでカラヤンを評価していたわけだ》

 カラヤンは、コンサートに臨む前に、その作品の録音を終えておくという手順をとっていた。つまり、レコード録音の場面が、そのままコンサートのリハーサルになっているのである。
 そのレコーディングのあと(数ヵ月後あるいは数年後)にコンサートの臨む。
 レコーディングの際に何回も演奏しているのだから、完璧なリハーサル済みというわけだ。
 しかも実際のコンサートでは、演奏に感動した聴衆がロビーで、いわば録音したてのレコードを買えるという、「儲けのビジネス」のシステム構築が見事にできたのである。

 その生演奏の方であるが、私が1973年のカラヤン/ベルリン・フィルの来日公演をNHK-FMの生放送で耳にしたときには(私がカラヤンの演奏を初めて耳にしたときだ、たぶん)、確かにすごい白熱した演奏だったと記憶している。特にチャイコフスキーの交響曲第4番はすごかった。
 それを思い出すと、著者のいう意味がよく解る気がする。

 さて、ベートーヴェンのトリプル・コンチェルトだが、こういった作品(大作曲家のちょっとマイナーな作品)はカラヤンの演奏がすごく良い。それは安心感も一つの要素としてある。

 紹介するCDはゼルファー(p)、ムター(vn)、ヨーヨー・マ(vc)のソリストによる。現在は単体ではなく、「コンプリート・レコーディングス・オン・ドイツ・グラモフォン 1978-1988」という、5枚セットのCDとして出ている。規格番号はUCCG9675~9。新星堂に在庫がある。5,000円(写真は単体の輸入盤)。

 でも、レコード会社が費用を出してくれるレコーディングの場を、そのままコンサート本番のリハーサルにするなんて、ある意味、すごい合理的である。