ヨハン・セバスティアン・バッハの無伴奏フルート・ソ289a8b05.jpg ナタ(パルティータ)イ短調BWV.1013。
 その名のとおり、フルート1本だけで演奏する曲である。
 作曲されたのは1720年代の初めと推定されている。

 昔は小学校の音楽の授業のときに、「バッハは『音楽の父』、そしてヘンデルは『音楽の母』です」と先生に教わった。今でもそうかも知れない。父と母がそう簡単に変わるわけがないどろうから……
 けど、素朴な疑問だが、誰が決めたんだろう?
 それに、ヘンデルはともかく、バッハという音楽家はこの世に1人しかいないような失礼な言い方だ。『音楽の父」を父に持つ、バッハという息子たちもいるではないか!
 まあいい。言ってみたかっただけです。

 でも、この「父」と「母」いう言い方を借りるなら、この仮想音楽家族は、厳格で神経質なお父さんと、明るくて太っ腹のお母さんで構成されていたということになる。なぜって、バッハは倹約家で、ヘンデルはお金の使い方も豪快だったから。
 なんだか、私の誕生した家庭に似ているような気もする(注~親の性格に限っての話)。

 まあ、それにしても、バッハの音楽は暗いときには真剣に暗い。ヘンデルが短調の曲を書いても深刻さってあまりないのだが、バッハが書くと今にも地割れが起こって皆が飲み込まれてしまいそうである。

 そして、この無伴奏フルート・ソナタも、かなり暗い。
 暗いけどだんだんクセになる。「明るいのはイヤっ!電気を消して」ってなってくる。

 私が初めてこの曲を聴いたのは、1979年5月28日のこと。
 記念すべき浪人生活に入った年。しかも、その生活に入って2ヵ月後ということになる。
 多くの友人が大学生という新しい道へ進み、気の毒なことにその中には“五月病”という、うどん粉病にも匹敵するような難病にかかっていたときに、私はそんな病気には無縁の環境下にいたことになる。なんて幸せだったんだろう!
 でもである、未来に夢を持った浪人生活に不気味な影を持ち込んだのが、この曲だった。
 たまたま、エア・チェックしたのだが、「かなり落ち込ませる曲」だと思った。
 何か恐ろしささえ感じる。「神の裁きは下されるのだろうか?」とか「実は私は心臓疾患にかかっているのではないだろうか?」、「親は私の扶養を切っていないだろうか?」といった、得体の知れない、じりじりと迫ってくるような恐ろしさである。
 「フルートって、もっと心地よい響きを与えてくれる楽器じゃなかったの?」。
 私は仏壇の前で、問いかけてみた。遺影のじいちゃんは笑ったままだった(ままでなかったら、私の人生は変わっていただろう。性転換して恐山に入ったかもしれない)。
 フルート1本でこのような音楽が繰り広げられることには驚いたものの、とにかく「今すぐ、ひざまずいて懺悔なさい」という感じだ。
 情景としては、「夜、城のずっとずっと奥まったところの一室で、蝋燭の光のなか、フルートを吹いている男がいる。こちらからは後ろ向きに、何者かにとりつかれたかのように一心不乱にフルートを吹いている。吹き終わって振り返ると……。ひぇぇぇぇ~っ、耳がとんがった、口が耳元まで裂けた悪魔だぁぁぁ~(そんな口じゃ、フルート吹けねえよ)」ってイメージである。
 もっと解りやすく言うと、肝試しの驚かせ役を任命され、嬉々として待ち伏せしたが、誰も肝試しに来ず、おまけに他の驚かせ役も姿を消してしまっていて、暗闇に1人取り残された感じである。あぁ、ぞっとする……

 そんな曲だから、そうそう耳にしたいとは思わなかったのだが、なぜか忘れられないのである。きっと悪魔の呪縛だ。
 いつもとは言わないが、ふとしたときに聴きたくなるのである(悪魔と対話したくなったときなど)。要するに「恐いもの見たさ」に共通するものがある(ない、ない!)。
 
 この曲は「無伴奏フルート・ソナタ」ではあるが、パルティータと呼ばれることもある。パルティータというのは「組曲」といった意味であるが、この曲の4つの楽章が、アルマンド、クーラント、サラバンド、ブーレ・アングレーズとすべて舞曲となっているため、パルティータ(組曲)と言われることもあるのである。
 えっ、これらが舞曲?
 そうかぁ、落ち込むとかそういう低次元の話ではなく、優雅な舞曲であったのね。あんまり納得いかないけど、そう思って聴くと舞曲にも思えてきた(結構、流されやすかったりして…)。
 いいや、悪魔の踊りだ、きっと……

 ヴァイオリンと違ってフルートは和音を鳴らすことができな8494176d.jpg い。にもかかわらず、すごい密度。しかもバッハの時代のフルートは今のものとは違う。キーなんてなかった。やっぱり悪魔じゃなきゃ吹けなかったはずだ。

 こういう曲ってどんな楽譜になっているんだろうと、好奇心で買った譜面を参考までに掲載しておく(ベーレンライター社出版のもの)。

 私がこの曲を初めて聴いたときの放送は、ライヴ録音のもの。なかなかいい演奏だった。
 今はラリューのフルートによる演奏を聴いている(フィリップスPHCP9091-92。バッハのフルート・ソナタ全集。2枚組。けど現在廃盤)。ただ、この曲の演奏に関してはスマートすぎて「おどろおどろしさ」にはちょっと欠けるきらいがある。

 まあ、最初に聴いた演奏の呪縛による、勝手な言い分ではあるが……