今日の僕、ちょっぴり元気だ、ホントだよ
だって、朝から麻婆豆腐
♪ トーマス・マンの
「ヴェネツィアに死す」を読んだ。
光文社の古典新訳文庫。訳は岸美光。
トーマス・マンは1875年生まれ、1955年没のドイツの作家である。唐突だが、グスタフ・マーラーは1860年生まれ、1911年没のオーストリアの作曲家である。
結論から言えば、この「ヴェネツィアに死す」(「ヴェニスに死す」の方が一般的か?)という小説、あんまり楽しめなかった。
訳者は解説の中で書いている。《書かれてからほぼ1世紀を経て、この物語はこんにち急速に古びつつあるように思われます》と。
「うんうん、そうだな」と頷いてしまう私。
じゃあなんでわざわざ新訳を出すんだってことは置いといて、初老の学者アッシェンバッハがヴェニスで出会った美少年に恋をしてしまい破滅していく、ってストーリーは、確かに今の時代となってみれば全然スキャンダラスではない。小柳ルミ子と大澄賢也の結婚の方がずっと衝撃的じゃあなかったかい?そこの奥さん!
この訳は、確かに“今の日本語”で書かれているが、どうももともとが硬い文章のようで、流れは悪い。がっちりとしているがどこか融通がきかないって感じは、文学でも音楽でもドイツ産に共通するのかも知れない。私はこれを読んでいて、ふとガチガチの音楽を書いたハンス・プフィッツナーのことを思い浮かべちゃった。けっこうマニアックだけど……
ヴィスコンティが監督した映画「ベニスに死す」は1971年の作品。
この映画では、マーラーの交響曲第5番の、弦楽だけで演奏される第4楽章「アダージェット」が何度も何度も流れてくる(アダージェット=とてもゆっくりと)。
この映画が、第5交響曲そのものの知名度を上げるのに貢献したのは間違いないだろうが、さらに言えば、この曲はマーラーの交響曲中でもバランスのとれた傑作と言ってよく、実はマーラー入門にも適しているのである。
あんまりつまらない話をちょっとだけすると、交響曲第5番嬰ハ短調(1901-02)は、4番までの交響曲が彼の歌曲「子どもの魔法の角笛」とリンクしているのに対し、そこから離れた最初の作品である。そして、この5番から7番までは声楽を用いずに純器楽だけの編成による作品となった。
ただし、曲冒頭でトランペットのソロが吹く「葬送行進曲」は、第4交響曲に現われる「葬送行進曲」と同じであり、“流れ”が完全に分断されているわけではない。
曲は5つの楽章から成るが、第1楽章と第2楽章は第1部、第4楽章と第5楽章は第3部とされ、長大なスケルツォ楽章である第3楽章が第2部となる。第1楽章と第2楽章、そして第4楽章と第5楽章はそれぞれ同じ主題を共有しており、楽章間の結びつきがなされている。さらに、第2楽章と第5楽章ではコラール風の主題が共有され、全体の有機的結合が果たされる。
第5番はこのように、「全曲を通じた主題の関連付け」と「言葉(歌)の排除」という特徴のほか、きわめてポリフォニックに書かれていることも大きな特徴である。彼はその点を徹底すべく改訂を繰り返したが、この曲に最後に手を加えたのは死の直前の1911年2月である。
ところで第5番で声楽を排除したマーラーであったが、歌曲とまったく無縁となったわけではない。この交響曲でも「子どもの魔法の角笛」からの旋律の引用があるし、同じく彼の歌曲である「亡き子をしのぶ歌」からの引用もある。引用された旋律の、もともとの歌曲をみると、その歌詞には皮肉が込められているものもあり、この交響曲にもパロディーが盛り込まれていることが見えてくる。
さて、ヴィスコンティは映画の中で主人公を作曲家にした。つまり、作曲家が美少年への恋に落ちてしまうのである。その風貌はマーラーそっくり。背後に流れるのは「アダージェット」。どう見ても、マーラーが少年を愛してしまった“実話”のようになっている。
文庫の訳者あとがきでは、次のように書かれている。
《本文を読みながら、マーラーの第5交響曲のアダージェットを耳に聞き、ヴィスコンティの映画のあれこれの場面を思い浮かべた読者も多いかも知れない。しかしあの映画の記憶を持つのは一定の年代以上の人たちだろう。若い世代はトーマス・マンを読むのだろうか。村上春樹の『ノルウェイの森』を読んで『魔の山』を手に取ったという若い人にはときどき出会う。「理屈が多くて閉口した」というのが彼らの大方の感想である。『ヴェネツィアに死す』はどうだろうか。やはり「理屈が多い」上に、古めかしいのだろうか。それとも不思議に新しいのだろうか。聞いてみたい気がする》
しかし、いずれにせよマーラーにそういう“癖(へき)”があったという記録はないし、まったくそのような事実はないだろう。あんなにアルマを愛し、逃げていかないように四苦八苦した男なのだ。
私はマーラーの交響曲については、1970年頃のゲオルグ・ショルティによるLPで親しんできた。
第5番についても、発売したてではなかったものの、ショ ルティ/シカゴ響のLPをけっこう早いうちに手に入れた。そのサウンドにも驚いた。私が英デッカの音にしびれるようになったのも、ショルティのマーラー・シリーズのせいである。
この1970年の録音もすごい。さすがにちょっとだけ古びてきたが、それでも左右の広がりとダイナミックレンジの広さ、スピーカーの中で弾いているような重低音のリアルさ。大太鼓の強打では、さすがに破綻をきたして歪むが、それもまた快感(ときおり楽器の位置が不自然になるが……)。このサウンドは、ショルティのズンズン推し進める演奏にみごとにマッチしているとも言える。
余談だが、この演奏のLPを買ったときのデザインは、ショルティの顔のアップだった。鼻毛がちょっとだけはみ出していた。ちょっといやだった。私は人の鼻毛が飛び出しているのをみると、何だか見てはいけないものを見てしまったような、バツが悪いような思いをしてしまう。なぜかは解らない が……。現行のCDではデザインが変わって良かったわぁ。
一方、ショルティは「行け行けGO!GO!」過ぎるという向きにはレヴァイン盤を私はお薦めしたい。
私も、ただただサウンドを全身に浴びるだけではなく、ちょっぴりワビサビの精神(ココロ)を追い求めたいときはこちらを聴いている。
でも、こちらのほうは、写真では鼻毛どころか、鼻の穴が消えているのが不気味である。不気味を超えて、けっこうオモロイ。
私には男が少年を愛するって心理が解らない。だからといって、オジサンだったら愛する心理が解るという意味ではない。
いろんなことがあるのね。
新館入口(2014.6.22~)
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