ショスタコーヴィチの交響曲第6番ロ短調Op.54(1939)。
この曲について、音楽之友社の「作曲家別名曲解説ライブラリー『ショスタコーヴィチ』」には、
《『第5番』が劇詩的・人間的であるのに対し、この『第6番』はいわば抒情的・自然的であり、この点もベートーヴェンの『第5番』と『第6番』との対比にいくぶん似ている。ここでは、すべてが清澄で、曇りのないやわらかい陽の光にみちている》
《発表当時のショスタコーヴィチの言葉によれば、『この交響曲(第6番)においては、春や喜びや生命の気分をあらわそうとした』ものだそうである》
と書かれている。
そうかなぁ~。ホントかなぁ~。
眉にツバ塗る私。
この文章を書いた人は、ほんとに第6交響曲を聴いているのかなぁ、と思ってしまう(ありえないけど)。第5番を「運命」のコンセプトと同じと決めつけ、そうなったら6番は「田園」に仕立てちゃえ、って感じだ。作曲者の二枚舌にも何の疑いも抱いていない。きっと素直なのね、あなたって。
作曲者自身はといえば、この第6交響曲について「書き終えたばかりの交響曲(第6番)は、物思いに沈んだ、叙情的な音楽が支配的である。このなかで私は青春と喜び、若々しい気分を伝えたいと願った」(“レニングラード・プラウダ”紙のインタビュー)と言っているが、これってなに言ってるんだか解ります?
矛盾してない?
ショスタコーヴィチの公式発言っていうのは本当に当てにならない。絶対に「願ってない」と見た!
結局は、この交響曲自体が矛盾をはらんだものだ、ということだろう。
さらには、この曲を書くにあたりショスタコーヴィチは「レーニン交響曲の仕事をしている」と宣言している。ところが出来上がったのは「ソナタ形式を欠く、30分ほどの」交響曲だった。
初演を聴いて「はて、どうしたものか」と困惑した人々がたくさんいたことが容易に想像できる。
それにしても、ドミトリーったら前もって余計なことを言うから批判の標的にされるのに、この正義感っていうか反骨精神っていうか、「もっと利口にやりゃあよかったのにな」と思ってしまう。ワザとこうやってぬか喜びさせるんだろうけど。
ショスタコーヴィチのやり方は、レーニンからしてみれば、大嘘つき野郎ってことになる。そりゃ、怒るわなぁ。
私にとっては、10年ほど前のことだろうか、NHKのある番組を観たときから、この曲(第1楽章)は「トイレの花子さん」と強烈に結びついている。
ご存知のように「トイレの花子さん」(←これはまた別の映画)は、トイレに潜むお化けである。
子供が小さい頃、ドラえもんの映画を観に連れて行ったことがあるが(連れて行きたくなかったが、連れて行けとせがまれたのだ。映画館はドラえもんに心酔する大勢の子供たちと、“どこでもドア”でどこかに逃避したがっている疲労困憊の親たちでびっちりで、私は立って観る羽目になった。金を払っているのになんであんな体験をしなければならなかったのか、思い出すといまだに腹立たしくなる)、そのときに一緒に上映されていたのが「トイレの花子さん」のアニメだった。
ストーリーはまったく覚えていない。なぜなら、席に座って優雅にポップコーンを食べていたどこかのガキ、いやご子息に目が釘付けだったからだ。こっちは倒れてしまいそうな思いをしているというのに……。自分が貧困者のように思えてしまった。
ただ、この話がトイレ掃除に従事する花子さんという名の勤勉な労働者を讃える物語でないことだけはわかった。
私が高校生の頃には「口裂け女」というのが噂になった。
雪まつりに合わせて北海道に上陸しているという話であった。
大きなマスクをかけていて、「私ってきれい?」「ほんとにきれい?」と聞いてきて、「うん」と答えると、彼女はマスクをとる。すると、ウギャピ~、耳まで裂けた口が現れるというものだ。
高校生ながらも、もし「口裂け女」に声をかけられたらどうしようと、真剣に怯えたものだ。雪山の陰から突然現れたら……。マスクをしている女性とは目を合わせないようにもした。それほど純真だったのだ。
にしても、耳元まで口が裂けていたら、マスクでなんか隠せないだろうというのが、壮年期になった今の感想である。
「トイレの花子さん」は今でいう典型的な「都市伝説」の一つだが、NHKが番組でそれを取り上げた。そういうのが流布するのは、世の中全体が不安な状況にあるとか、いい年をして口裂け女を怖がる人間は精神年齢が著しく低いとか、そんなことを言っていたような言ってなかったような気がする。
番組のエンディングに使われていたのがショスタコーヴィチの交響曲第6番第1楽章の中間部であった。
ここではフルートがひじょうに長くソロを吹く。 そのフルートが歌う部分の前半が、掲載した楽譜の箇所である(楽譜は全音楽譜出版社)。
エンディング画像は都市を俯瞰したものだったが、その画と暗いナレーションに、この音楽が見事にマッチしていた。いやぁ、選曲した人を尊敬してしまう。
ということは、少なくとも第1楽章は私にとってみれば、「曇りのないやわらかい陽の光にみちている」とは思えないということだ。選曲した人だってそう思ったのだろう。「物思いに沈んだ、叙情的な音楽が支配的」っていう点では、まさにその通り。
第1楽章は声を潜めた、恐怖と不安の金縛り的音楽である。
曲は3楽章から成り、楽章を追うにつれて速度が増す。
第2楽章はショスタコーヴィチの特徴でもあるおどけた音楽。
終楽章はズンチャズンチャというおふざけしてるの?と言いたくなる快活な音楽である。ここまで来ると「春や喜びや生命の気分をあらわそうとした」という作曲家の言葉も解らなくもないが、でも「喜び」というよりは「空騒ぎ」っぽい。あるいはこれがレーニンの肖像画か?
また、この交響曲はソナタ形式の楽章を欠いている。レーニンは重要なものを欠いているというのか? 交響曲第6番を書き始めるときに作曲者は「レーニン交響曲」とは言ったが、出来上がった作品について「レーニンとはまったく関係のない交響曲になってしまった」と明言もしていないのだから(私の知る限り、では)、皮肉的カラクリが盛り込まれていると想像しても許してもらえるはずだ(誰に?)。
私はこの曲の終楽章が好きだ。
最初に聴いたときから好きだ。
LPではムラヴィンスキーが指揮するライヴ盤を聴いていた(メロディア)。
今はベルナルト・ハイティンク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏を好んでいる(1983年録音)。
ハイティンクという指揮者は地味な存在であまり面白みがないと言う人もいるが、ショスタコの演奏なんかを聴いてもいい仕事をしていると思う。
彼が録音した演奏はどれも安定感があるが、安定しているからといってノリが悪いというわけではない。むしろ安心しながらじっくりと曲を味わうことができる。
カップリングは交響曲第12番。
この作品も私の恋人。
近々取り上げたい。
ハイティンク
ちょっぴり似てるよ
タコ坊主