バルトーク(1881-1945)のヴァイオリン協奏曲第1番Sz.36(1907-08)。
 この作品については、先日、彼の「2つの肖像」Op.5,Sz.37(1907-08,11)について書いた際にすでに触れた。
 バルトークはこの曲を、激しい想いを寄せていたヴァイオリニスト、シュテフィ・ガイエル(1888-1956)に捧げたが、彼女は別な人と結婚。この曲も演奏されることはなく、彼女の遺品の中から発見されたのであった。
 バルトークの方はというと、彼女にコンチェルトを贈るのとほぼ並行して、コンチェルトの第1楽章をほぼそのまま「2つの肖像」の第1楽章「理想的なもの」に転用したのであった(「2つの肖像」の第2楽章(1911年に書かれた)は「醜いもの」と題されている)。

 1939年にヴァイオリン協奏曲第2番Sz.112(1937-38)が初演されたときは、まだ第1番のコンチェルトは発見されていないから、番号なしの「ヴァイオリン協奏曲」として発表された。
 しかし、バルトークっていう人もなかなかである。私だったら「実はこれは第2番なんだよ~。言いたくはなかったんだけど、昔好きな女がいてさ、その人のためにコンチェルトを書いたことがあったのさ。その女ったら、お蔵入りにしちゃったままなんだよね。今さら返せとも言えないしなぁ」なんてゲロっちゃうかも知れない。
 いや、真の愛を抱いた相手を傷つけるようなことは、やはりしないものなのだろう、きっと。この私だって(コンチェルトを書けたとしたら)。

 話は変わるが、最近のトンボは根性がなくなったような気がしてならない。トンボって、別に深い意味はない。アカトンボのことである。音楽にまつわる話を書いているからといって、ラヴェルの作品を暗示しているわけでは、全然ない。
 庭を飛んでいるトンボたちも、飛んでいるというよりはどこかにとまって休んでいることの方が多いし、昔のトンボなら目の前で指で円を描いて目を回してからでないと獲れなかったはずなのに、今なら簡単につかまえることができる。人間と同じで全体的にひ弱になってしまったとしか言いようがない。
 昨日はクモの網に引っ掛かっている“2匹トンボ”がいた。あの電車ごっこみたいなトンボである。飛びながら交尾なんかしているから網に引っかかるのだ。一応はもがいていた。クモがまだ駆けつけていなかったので(食事用のナプキンでも探していたのだろう)、私は助けてやった。
 2匹はこの命の恩人に、感謝の言葉を言うでもなく飛び去った。礼儀もないくなっているのだ。これも現代の人間と同じだ。

 そんなことはどうでもいいが、私が言いたかったのは、1fbb3199.jpg ヴァイオリン協奏曲第1番は2つの楽章から成るということだ。
 「2つの肖像」に転用された第1楽章は、幻夢的な(←勝手な造語)静けさと官能美をもったもの。対して第2楽章はリズミックで力のあるものである。第2楽章の“運び方”はいかにもバルトークらしいもので、最後の方でフルートが吹くエピソード的な旋律や、盛り上がりでの大太鼓の効果なんかは私の「お気に」である。

 紹介するCDはチョン・キョン・ファ独奏、ショルティ指揮シカゴ交響楽団のものだが、すいません、またまた廃盤です。デッカの425 015-2。ただし、同じ演奏がピアノ協奏曲と一緒になった2枚組で販売されている。

 1990年11月の札響定期では、シュロモ・ミンツの独奏でこの曲が演奏された。なかなかいい演奏だった。でも、拍手は少なかった。札幌の聴衆はバルトークが苦手?