D.ショスタコーヴィチの交響曲第5番ニ短調Op.47(1937)。
 この曲について書くのは今年2月13日の投稿に次いで2回目。

 1936年に2度にわたってプラウダ紙上で公式非難を浴びせられたショスタコーヴィチであったが(「音楽のかわりの荒唐無稽」「バレエの偽善」)、1937年の1月にはレニングラード音楽院の講師に就任している。それでも彼に「人民の敵」というレッテルが貼られていたのに変わりはなかった。
 しかも、4番の初演中止後(そして、第5交響曲の作曲を進めている最中に)“トゥハチェフスキー事件」が起こった。ショスタコーヴィチは《そのニュースを新聞で読んだとき、わたしの目の前がまっ暗になった。いま自分は殺されつつあるとまで思えた》(*1)のであった。

 ミハイル・トゥハチェフスキーは1893年生まれのソヴィエト陸軍元帥である。
 第1次世界大戦でドイツ軍の捕虜となったが脱走し、帰国後赤軍に参加した。
 1920年のソ連軍ポーランド侵攻に加わったのち、32年には“機械化軍団”を編成、ソ連軍の近代化に貢献した。
 1935年に元帥に昇進したものの、スターリンの赤軍大粛清で37年に逮捕。秘密軍法会議で死刑を宣告され、即刻銃殺された。容疑はナチス・ドイツのスパイということであったが、スターリンが自分の地位を脅かされていることと嫉妬から死刑にされたと言われている。
 19歳のショスタコーヴィチがトゥハチェフスキーと知り合ったとき、彼はすでに30歳を越えていたが、二人の親交は続いた。

 このような状況の中で、ショスタコーヴィチができたこと。それは新しい作品で名誉回復を図ることしかなかった。

 第5交響曲は3か月余りという極めて短期間で書き上げられた。
 4つの楽章という交響曲の基本的な楽章構成であり、内容が苦悩→克服→歓喜へという流れであること(この部分は単純には判断できないが)、第5番という番号を持っていること、「革命」という標題で呼ばれたことから、この曲はベートーヴェンの交響曲第5番「運命」と比較されることも多かった。しかし、他の作品同様、ショスタコーヴィチの作品がもつ意図は謎の部分が多く、ましてや作曲者がベートーヴェンの「運命」と同じ理念で書いたとは考えにくい。
 各楽章が持つ標題的意図は、作曲家別名曲解説ライブラリー⑮「ショスタコーヴィチ」(音楽之友社)によると、《ソ連の評論家によれば、第1楽章は「自問……または幼時の思い出」であり、第2楽章は「再びかえりこぬ過去への皮肉な微笑」、第3楽章は「涙の苦しみにあふれ」、そうして第4楽章は作曲家自身の言葉によれば「これまで諸楽章で課せられたあらゆる疑問に対する解答」であるという》
 その解答とは何なのか……?

 初演は1937年11月21日にレニングラードにおいて、ムラヴィンスキー指揮のレニングラード・フィルによって行われた。
 初演は大成功で、「社会主義リアリズムの偉大な成果」と称賛された。
 この曲は作家であるアレクセイ・トルストイ(「クロイツェル・ソナタ」や「アンナ・カレーニナ」などを書いたのは、同じトルストイでもレフ・ニコラエヴィチ・トルストイである)の「苦難の行路」における“人間性の回復”をモットーにした作品とも言われている。
 そのA.トルストイは、初演後にイズベスチャ紙に次のように寄せている。

 《各楽章はそれぞれ一つの心理的気分を完全に形づくっている…その感情はオーケストラのなかから泡立ちあふれ、春風のようにホールをよぎった…ショスタコーヴィチの明るい人生観は、ソビエトの聴衆に理解され受け入れられたのである》

 春風のように?
 明るい人生観?

 作曲者の真意は分からないが、このA.トルストイの描写は的を得ていない。表向きにこう表現している可能性もなくはないが。

 H.ショーンバーグは「大作曲家の生涯」(共同通信社)のなかで、《ショスタコーヴィチは1937年、『交響曲第5番』を発表して復権に成功した。そかし、どの点から見ても、彼の作曲家としての経歴は破滅した。以後再び、彼が『交響曲第1番』や『鼻』『マクベス夫人』『ピアノ協奏曲』などでみせたような奔放さ、閃き、現代らしさが、彼の作品に現れることはなかった。彼は無難な音楽しか書かなくなり、古い公式を繰り返し、プロコフィエフの癖をまねるようになった》と書いているが、これは正しくはないだろう。
 奔放さや閃きは影を潜めたかも知れないが、簡単には素顔を見せない深みに入っていったと見るのが正しくはないだろうか?

 第5交響曲にしても、単なる体制迎合音楽ではなく、彼の真髄が分かりやすく表現されていることに他ならない。まるで子供に語りかけるように。それが必ずしも作曲者の望む手法ではなかったにせよ、彼にはそういう選択肢しかなかったわけである。
 しかし、おとぎ話には深い意味が込められているように、この音楽にもブラックホールのような深みがあるに違いない。

 余計なことかもしれないが、ここで(偽書とされているもののまったくの創作とも思えない)S.ヴォルコフの「ショスタコーヴィチの証言」(中央公論社)から、次の言葉を引用しておこう。

 《あるとき、わたしの音楽の最大の解釈者を自負していた指揮者ムラヴィンスキイがわたしの音楽をまるで理解していないのを知って愕然とした。交響曲第5番と第7番でわたしが歓喜の終楽章を書きたいと望んでいたなどと、およそわたしの思ってもみなかったことを言っているのだ。この男には、わたしが歓喜の終楽章など夢にも考えたことがないのも分からないのだ。いったい、あそこにどんな歓喜があるというのか。第5交響曲で扱われている主題は誰にも明白である、とわたしは思う。あれは『ボリス・ゴドゥノフ』の場面と同様、強制された歓喜なのだ。それは、鞭打たれ、「さあ、喜べ、喜べ、それがおまえたちの仕事だ」と命令されるのと同じだ。そして鞭打たれた者は立ちあがり、ふらつく足で行進をはじめ、「さあ、喜ぶぞ、喜ぶぞ、それがおれたちの仕事だ」という。
 これがいったいどんな礼賛だというのか。それが聞きとれないなんて、耳なしも同然だ。ところが、ソ連作家同盟の指導者で、スターリン批判後に自殺した作家アレクサンドル・ファジェーエフ(1901-56)にはそれが聞こえた。それで彼は、まったく自分だけの個人的な日記に、第5番の終楽章は果てしない悲劇だ、と書きこんだのだ。きっと、ロシアのアルコール中毒患者に固有な魂で感じとったに違いない》(265p)

 そしてまた、同書の中には《多くの人々は、第5交響曲のあとにわたしが復活したと考えているようである。そうではなく、わたしが復活したのは第73b5b8ba0.jpg 交響曲のあとだった》(201p)とも書かれている。

 前回はハイティンク指揮のCDを取り上げたが、今回はエリアフ・インバル指揮フランクフルト放送交響楽団の演奏。
 インバルは過度にエキサイティングせず、彼らしい見通しのよい演奏をしている。かつて“レコード芸術”誌の特選盤に選ばれたこともある演奏である。1988年録音。デンオンのCOCO70407で、タワーレコードのネット・ショップにも在庫がある。1,050円↓。
 気になる、というか、これが特徴なのだが、デンオンのPCM録音はどこか音が薄っぺらいところがある。よくいえば、清澄と言えるのかもしれないけど。
 いずれにしろ、久々に現役盤を紹介できてよかった……