「私が育んだ石」 第1部「トロカツオ純情編」 その2

 偽善的な優しさに満ちた医者の呼びかけを受け、私はお腹の痛みのために体をタコのようにくねらせながら診察室へと入った。
 そこにいた医者はそこそこ年をとった、よく言えば経験深そうな、疑って言えば個人病院で可もなく不可もなく日々を過ごしてきたような医者で、そのかすかな笑みと心配そうな瞳は、やっぱり偽善的であった。こういった印象は、患者が老人だったらウケるのかも知れない。

 「どうしたんですか?お腹が痛いんですって?」
 もう知っているなら「どうしたんですか」なんて聞くな。先生こそ「いったいどうしたんですか?」である。
 でも、今や私の命のともし火が消えるかどうかはこの医者にかかっているのである。直感的に頼りにならないと思ったが、彼しかいないのだ、私には。
 「はい。ものすごく痛いんです」
 「昨日、何か食べた?」
 食べたに決まってるじゃないか!
 「はい、何かは食べました」
 「どんな何かを食べたの?」
 いや、実際にはこのように和気あいあいとは進まなかった。
 正確には私の答えは「別に変わったものは……」であり、それに呼応する医者の言葉は「どんなもの食べたの?」であった。
 「居酒屋に行きまして、そこでトロカツオの刺身一切れと、ビールたっぷりと、焼酎のお湯わりを2杯です」
 「トロカツオ?食べ物はそれだけ?」
 私は痛みと話の進展が遅いことにいらだちを覚え、苦しい呼吸を繰り返しながらも答えた。
 「飲むときはあまり食べないのです。刺身は嫌いですが、今日のトロカツオは美味いですよ、とお店の人が言っていたので、一緒に行った人が頼んだのを一切れ食べました」
 「美味しかった?」
 「いえ、初めて食べてみましたが、好きな味ではなかったです」
 「じゃあ、そこのベッドに寝てみて」
 せっかく話が盛り上がってきたのに、医者はそれを断ち切った。やはり偽善的な男なのだ。
 私はシャツを捲り上げて仰向けに寝た。
 医者はポンポンとお腹を軽く叩いたり、聴診器を当てたりして、自信に満ちた表情で言った。
 「食当たりだね」
 あぁ、あのときの勝ち誇ったような顔!あぁ、私は禁断のトロカツオのせいで、腹の中がトロトロになってしまったのだ!
 「こういうのは出しちゃったほうがいいから。痛み止めは出すけど、水分をたっぷりとって早く出すんだよ」
 「は、はい」

 ということで、私はただ腹をポンポンされただけで帰宅を命じられた。
 それにしても、私はつくづく素直な子だと思う。
 というのも、なるべく早く出す、脱水症状に気をつける、というあの仮面的笑顔老医師の助言を実行するため、腹に手を当てながらも、帰り道にコンビニに寄り、ポカリスウェットやアクエリアス、なぜかカツゲンまで買って家に帰ったのだ。

 さて、家に着いたはいいが、とても普通ではいられない。とても独りトランプ占いなんてやろうという気が起きない。それどころか痛みはどんどん増すばかりである。かといって、トイレに行きたい気がして駆け込んでも、一向に出ない。ひどくヒトを馬鹿にした、ブッという空砲が鳴るだけである。

 やがて汗も出始め、トイレに立つこともできないくらいになってきた。
 妻は私に言った。
 「あそこの先生、あんまり評判よくないわよ」

 あぁぁぁぁ、あぁっ、そうですか!それはどうも御親切に教えてくれてありがとうございます。

 最初に言え!このバカ者!
 でも、私には喧嘩を売る気力も体力ももはやなかった。私はこんなに敏感だったのかと思うくらい、ビンビンとなっているではないか。いや、腹の痛みのことである。

 妻は言う。
 「食当たりなんかじゃ悪い病気なんじゃないの?別なとこに行ってみたら?」
 やれやれ、奴隷が王女様にありがたき助言を授かっているかのようだ。

 電話をかけ、まだ診てもらえることを確認し、車で15分ほどのところにある総合病院に行くことにする。
 もはや私は運転などできる状態ではない。
 妻に運転させる。
 赤信号で停まるたびに、私は拷問を繰りかえされるような苦痛を味わう。
 もう信号無視してくれ、と懇願したくらいだ。ふだんよっぽどのことがない限りは、彼女にそんなことを頼まない。つまり、そのときはよっぽどのときだったのだ。もちろん彼女は私の悲痛な叫びを無視した。「なんで?捕まったら私が傷つく」。わかりやすい理由である。

 病院に着く。
 私は妻に、とにかく事情を話して早く診てもらうようにして欲しい。このままなら私は破裂する、と懇願した。彼女はしかたないわねぇ、って感じで近くの看護婦に言いに行った。
 その間私は、初診であるこの病院にかかるにあたっての、書類記入という難題を課せられていた。でも、痛みで字も書けないのだ。いやぁ、人間、痛みで悶絶状態にあると字が書けなくなるという、すっごい定理を発見した。

 超宇宙的時間のような待機のあと、私は夢にまでみた診察室へと誘われた。 [続く]