c593ae52.jpg  D.ショスタコーヴィチ(1906-75)の交響曲第15番イ長調Op.141(1971)。
 
 ショスタコーヴィチ最後の交響曲。そして、実に不思議な交響曲である。
 だが、私は彼の15曲の交響曲のなかで、この作品に最も強く惹かれ続けている。
 これまでショスタコーヴィチの交響曲について書いてきたが、30数年聴き続けても未だ謎めいて聴こえるこの交響曲については、何回かにわたって多少くどめに書かせていただきたいと思う。今日は第1楽章の前半部分(提示部)について。

 この作品で私がいまのところ決定打だと思うCDはクルト・ザンデルリンクがクリーヴランド管弦楽団を指揮した1991年録音のものだが、このCD(エラートWPCS5539)のもう一つの魅力は、森泰彦氏による通り一辺ではない解説である。
 長くなるが、説得力のあるこの解説から、まずは第1楽章にc283f559.jpg ついての前半の部分を引用させていただくことにする。

 《第1楽章アレグレットは、たびたび拍子が変わるものの4分の2拍子を主体とし、最初の144小節と402~475小節がイ長調の調号、そのあいだの145~401小節が調号なしで書かれている。そこから想像されることとして、たしかに144小節までが提示部にあたり、その次が展開部にあたる。しかし402小節以降は再現部というよりはコーダの性格がつよく、そう簡単ではない。
 全曲はカンパネッリによるe音の2打ち、という異様な始まりかたをする。メトロノームの指示を守れば、この2打ちは1秒に1回ずつ打たれることになり、そうすると時刻を告げるベルがイメージされる。しかしそこからくりひろげられる怪奇の世界を考えると、これは2時は2時でも、午前2時にちがいない。
 第1楽章の第1主題、というより基本動機は、いきなりフルートのソロで出る。音型そのものは、まあどうっていうこともc41efbfc.jpgないが、es-as-c-h-aという動きは最初から変で、これだけ見れば前半が変イ長調、後半がイ長調でなくイ短調というわけで、調子が狂っているのやらねじれているのやら、というわけだ(オーケストラで聴くとそれほどでもないが、ピアノで弾くときわめて異様)。ちなみにこの動機の2つめの音asを省略すると、全体の輪郭は前述した(引用者注:曲全体の解説で触れられている)トリスタン動機、あるいはグリンカの歌曲の動機と同じになる。冒頭楽章と終楽章の主題はどちらが先に発想されたのだろうか。
 さてフルートは40小節まで第1主題を提示する努力をつづけるが、報われることなく、バトンをファゴットに譲る。ファゴットもチャイコフスキーの「交響曲第5番」のワルツに迷い込んだりして役目を果たせず、次は低弦の番。これが木管の基本動機で断ち切られると、弦楽がようやく明確なイ長調で上機嫌に走り出したように思える。しかしイ長調の伴奏のままでメロディーはたちまち間違った嬰ヘ長調(!)にはずれ、変ホ長調を経て、トランペットが無調的な第fb224129.jpg 2主題を提示しはじめる。すばらしい第1主題を提示しようという試みは、すべて徒労に終わったのだ。
 第2主題もうまくいかない。最初の4小節以上は進めず、基本動機に由来する音楽や「ウィリアム・テルによって、そのたびに遮られてしまうのだ
 提示部は基本動機によって強引にイ長調で終止する》

 交響曲第15番は、11、12番という標題交響曲、13、14番という声楽を伴った交響曲のあと、第10番以来の純音楽としての交響曲である。
 森氏の解説にもあるように、この交響曲ではロッシーニとワーグナーの作品のテーマが引用されており、他にもさまざまな引用があると言われているが、この2つがことさら目立つ。
 第1楽章で引用されているロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲の有名な旋律について、ショスタコーヴィチ自身、初演後のインタビューで「第1楽章はこども時代。こまごまとした飾b1008092.jpgり物の置いてあるまったく幸せな『おもちゃ屋』だ」と語っている。
 これが「まったく幸せな『おもちゃ屋』だ」とするならば、それは「幼少期の彼の憂鬱な思い出」の逆説的発言であるように思われる。こんな音楽で表現されているのだから。

 しかしながら、別なインタビューでは次のようにも述べている。
 《「交響曲第15番」に決まった標題はありません。漠然としたイメージだけがあって、第1楽章はおもちゃ2eb57038.jpg 屋で起こるようなことだ自分で述べたことがあります。でも、私自身がそう言ったからといって、まったく正しいと考えるべきではありません。―中略―私の作曲生活は長く、かなり昔からたくさんの作品を作曲していますが、今に至るまで、なぜこうしたか、ああしたかということを正確に説明することはできないでいます。―中略―これらの断片をなぜ私が「第15番」に用いたかということも、この部類に属していて、正確に説明することは不可能でしょう》(1973年、アメリカのTV番組収録時の談話)

 このショスタコーヴィチの言葉は、意味深い。
 つまり、いままで自分が自作品について言ってきたことなんか信じるなよ、と言ってるに等しいからだ。やっぱりねぇ……

 また初演時の指揮者である、息子のマキシムは「この交響曲第15番は人間の生涯を回想したものであり、父ドミトリーが少年期にロッシーニの音楽に引かれていて、おもちゃ屋で遊ぶ楽しさを描いている」と語っている。
 この曲を書いていたとき、ショスタコーヴィチが自分の死がd462681d.jpg近づいてきていることを認識していたことは間違いないと考えられ、その意味で彼はこの交響曲に自分の生涯の思い出を集約させたと考えることに無理はないだろう。
 だからこそ、なんと闇に覆われた人生だったのだろうと考えさせられる。

 楽器編成はpicc,fl 2,ob 2,cl 2,fg 2,hrn 4,trp 2,trb 2,tuba,timp,大太鼓,トム・トム(ソプラノ),タンブーラ・ミリターレ,シンバル,タム・タム,トライアングル,カスタネット,レーニョ(ウッドブロック,むち,シロフォン,グロッケンシュピール,ヴィブラフォーン,チェレスタ,弦5部(16-14-12-12-10)。2管編成だが弦楽部が(最少の場合の)人数が指定されているように管に対して大きく、また拡大された打楽器群に特色がある。
 しかしながら、曲そのものの響きは全体を通して室内楽的であり、全奏で咆哮する箇所は全曲を通じても数か所しかない。

 曲全体にまつわること、この作品が書かれたころのショスタコーヴィチの体調などについては次回以降で触れていくこととして、ここでは第1楽章の前半部まで、スコアを見ながら森氏の解説の確認をしていきたいと思う。
 なお、私は楽譜が読める人間ではない。曲に合わせて追っていくことはできるが、読むことはできない。楽譜を用いた説明は、だからこそ不親切だと自分でも思う。しかし、楽譜は絶対的な目印となるものである。それは音楽における言語だから。その点、ご容赦いただきたい。

 第1楽章はアレグレット。4分の2拍子主体だが、4分の3拍子が介入してくる。全奏部分はこの楽章では10小節しかない。
 曲は譜例1のように始まる(今回掲載したスコアはすべて全音楽譜出版社刊のもの)が、森氏の指摘しているとおり、カンパネッリ(グロッケン)の2打で始まる。この澄んだ音は、まさに時計の鐘を思わせる。だが、これから起こることは「くるみ割り人形」のような魔法の話ではなく、心の闇の映写であるかのようだ。
 すぐに始められるフルート・ソロの主題は、彼のチェロ協奏曲第1番の冒頭(譜例1')を思い起こさせる。
 森氏によると、この動機の2音目を取り除くとワーグナーの「トリスタン動機」と一緒になるというが、これはまた、トリスタン動機と同じ進行で始まるグリンカの「故なく私を誘うな」という歌曲に酷似しているという。この歌曲の歌詞はE.バラトィーンスキイ(1800-1844)による「幻滅」という原題の詩だという。その歌詞は、

 故なく私を誘うな、
 また再びやさしいそぶりを見せて。
 夢を失った者には無縁なのだ、
 過ぎ去った日々のすべての誘惑は!
 私はもはや誓いの言葉を信じない、
 私はもはや愛を信じない、
 そして私はもはや再びふけることはできないのだ、
 一度裏切られた夢には!
 私の言葉なき憂いを増すな、
 過ぎ去ったことをまた言いたてるな。
 そして世話好きな友よ、病みつかれた男の
 まどろみをそっとしておいておくれ!
 私は眠る、私にはまどろみは心地よい、
 昔の夢は忘れるがいい――
 私の心に波だつものがある、
 だが君が呼び起こすものは愛ではないのだ(伊東一郎訳。WPCS5539の解説から)

というもの。森氏はこの詩の内容が、交響曲第15番という作品の内容を暗示しているのではないかと指摘する。

 フルートからファゴットに主題がバトンタッチした部分が譜例2である。ただ、ここにチャイコフスキーの第5交響曲のワルツが絡んでいるということについては、いまだに私はよく分からないままだ。
 トランペットによる第2主題は、そのあとに出てくる「ウィリアム・テル」序曲の終曲を予言しているかのようである(譜例3)。次いで、その「ウィイリアム・テル」序曲が現れる(譜例4)。
 この引用は全部で5回。この行進曲風の旋律の引用は、第15交響曲の初演時から話題となったというが、確かにこの引用が交響曲への興味を高めているのは確かであろう。しかし、これは何を意味するのか?おもちゃ屋での幸福な思い出か?それとも、1973年のインタビューでのように、そんなことはないのだろうか?ここに「ウィリアム・テル」が引用されたことは、もっと別な意味を持っているのかもしれない。ウィリアム・テルはスイス独立運動の闘士だったのだが……

 こうして曲は進み、ライト・モティーフ(第1主題を構成する動機)が3度反復されて提示部を終わる(譜例5)。このライト・モティーフ3度反復というのは、第1楽章の終りも同じである。

 次いで、展開部に入るが、それは次回以降とする。