「私が育んだ石」 第3部「醤油ラーメン舌鼓編」 その3    

 予想もつかない災害で断水したとしても、しばらくは不自由しないくらいの水は確保した。不思議な充実感が私を包み込む。
 そのあと私は、これからの一夜にふさわしい、いろっぽくないパジャマに着替えた。

 となると、あとは読書しながらベッドの上で過ごすしかない。まさか初めて会ったおじさんたちを相手にして将棋に興じるってわけにもいかないだろう。だいたいにして、将棋というのは2人でするものだ。1人が余されてしまう(間違いなく私だ)。

 だからといって暇つぶしにX線撮影室に遊びに行っても、「大鵬娘」は相手にしてくれないだろう。いや、もし相手にしてくれたとしても、それはそれで厳粛な病院内の風紀を乱すことになる。いや、X線技師と結石入院患者のCT装置上での不思議な出会いといった、たいそうなことを言おうとしているのではない。
 ほんのちょっと彼女と談笑しただけで、明日の手術で意地悪をされるかもしれない。
 医者にとってみれば、内視鏡をどのくらい曲げるかというさじ加減一つで、私の尿管を変形させたり、場合によっては裂くことなんか、小さじと大さじを間違えるよりも簡単にできるに違いない。

 私は、家から持ってきた“画像診断で読む人体”という新書本を開いた。
 実に自分が置かれた環境にマッチした選択だと思ったのだが、全然興味をそそらなかった。家で読んだときにはたいそう感心しながら活字を追えたのに、まさに人体実験を明日に控えている今、理屈なんてどうでもいいのだ。まだ“現代用語の基礎知識”の方がヒマつぶしになったに違いない。うつぶせの体勢なら、あの分厚い本でも腕は疲れないで済むだろう。

 部屋の同居人たちは酸欠で苦しんでいるザリガニのような顔をして眠っていた。
 こんなに時間つぶしがうまいなんて、入院に向いているタイプなのかもしれない。

 そんなこんなでようやっと夕食の時間になったが、何を食べたかまったく覚えていない。 ミネラル・ウォーターで十分満腹だったから、全然印象に残っていないのだろう。あるいは記憶が欠落しているだけで、断食の刑が与えられていたのかもしれない。

 とにかく、水を飲んだ。
 池のコイだって、こんなには飲まないだろう、ってくらい飲んだ。
 その成果として、トイレにも行った。
 数十分おきに病室とトイレを往復した。まるで廊下で歩行リハビリに励んでいるかのように……

 初めて結石の発作を起こしたときに入院した病院では、オシッコをするときに尿を金網でこすように言われた。石が出たときに金網に引っかかるってわけだ。シラウオすくいと同じ原理だ。単純ながらも、なんと確実性の高い方法であろうか!
 だが、ここの病院は違う。
 ビールのピッチャーのような無色透明のプラスティック製の容器に向ってするのである。「原始に帰れ!」的手法である。
 このような方式を採用しているのは、不用意に金網を置いておくことによって、それを調理器具と勘違いして使う人がいる危険性があるからだろうか?
 それにしても、気をつけないとピッチャーを持っている手にしずくがはねる。
 昔、尿を飲む健康法っていう、健康の定義まで再協議を迫られるような健康法があったが、それを実践していた人たちもこのように採尿していたのだろうか?

 無事に1滴残さずに容器内に放尿し終わったあと、その心地よい放射熱を発散している容器を蛍光灯にかざし、底の方から小麦色の液体を観察する。自分の尿をここまで愛情こめて見ることなんて、そうそうできる体験ではない。健常でないことに淡い喜びを感じる瞬間だ。このとき、底に石があれば「おめでとう」、なければ「次回に期待!」である。

 この容器、ピッチャーに似ているといったが、実際には台形のように口が広くて底がせばまっているわけではなく、形としては料理用の計量カップを巨大にしたようなものと思ったほうがよい。
 それにしても、一回一回、石の有無を確かめたあとは便器に中身をジャーっと捨てるのだから、ここまで気合を入れて大きくしなくてもいいと思ってしまう(3リットルは入るだろう)。それとも、時にはこの容器をいっぱいにするくらい出てしまう人がいるのだろうか?
 どっちにしろ、このときから私は、飲み放題の店などでピッチャーでビールを出されたら、すっごく嫌な気分に陥らざるを得なくなった。

 消灯まで水を飲み続けた。
 もし私の体が柱サボテンだったなら、断面が星型ではなく、完璧なる円になっていただろう。もう少し放っておくと根性腐れ、いや、根腐れを起こして死に至ったであろう。
 「さてさて、どっこいしょっ」と、内なる声に促されて、寝る前にこの日最後のお小水を出しに行った。

 そのとき、オチンチンの先、尿道の出口付近にチクリと痛みを感じた。
 理由は分からないが、この刺激は頻尿を促すような違和感である。
 ただでさえ大量に水を摂取しているのだ。私の体はいまや、しばらく水の中に放り込まれていた食器洗い用のスポンジのようになっている。指一本でどこか押されただけで、水滴がにじみ出てくるのだ。
 それなのに、加えて刺激性頻尿は困る。
 垂れ流せと言われているようなものだ。
 私は亀頭の違和感がきっと気のせいであるようにと祈祷した。
 そんなふうに、非H的に悶々とした気分だったが、他のおじさんのかすかなイビキに体のリズムが合ってしまったのか、私は一気に眠りに落ちてしまった。オチンチンの先から焼け火箸を入れられる夢を見たような気がする。

 翌朝。
 12月のきりりとした空気が病室内にも伝わってきそうな晴れ渡った日になった。
 泌尿器の手術をする日としては実にふさわしいような、ふさわしくないような天気である。でも一つだけ言えることは、「さぁ、やったるでぇっ!」という前向きな気持ちにちょっとだけなった。
 そんなやる気をそぐかのように、朝食はない。
 チンチンに管を入れるだけなのに、なぜ朝食抜きの試練を課せられるのか分からないが、ここで大げさに騒いだところで、所詮大人げないと陰口を叩かれるだけだ。それとも、緊急的に方針転換して開腹もありうる、という無言の予告なのだろうか?

 病室の向かいにある手術室には、必要以上に張り切って準備に追われている看護婦たちが出入りしている。でもよくよく観察してみると、出入りしているのは1人だけで、その1人が何人分もの慌しさを醸し出していた。明らかに刑の執行を待つ人間の恐怖心を煽るのが狙いだ。

 手術前に尿をためておくべきか、すっかり搾り出しておくべきかの指示がなかったが、我慢できなくなったので、指示待ち人間とは一線を画す私は自主的にトイレに行った。
 不思議なことに、あんなに水を飲んだのに、昨夜は一回もトイレに起きなかった。
 不本意にもオネショをしてしまっていないか、目覚めと同時に確認したほどだ。もし粗相があったなら、気づかれる前におじさんのベッドと入れ替えることも視野に入れていた。でも、小学生以来の記録を更新することはなかった。人間というものは、このような非日常的状態に置かれたとき、植物のように蒸散機能が働くのだろうか?

 トイレに行く。
 昨日入院したばかりなのに、ひどく目になじんだ光景だ。
 ピッチャーに向って放出する。
 大量に膀胱に貯められた尿は重力に抗しきれずに早く外に出たがっている。こっちだって早く出し切ってしまいたいが、欲望のまま勢いよく出すと、容赦なく跳ね返ってくる。それでなくても容器内はドボドボと滝つぼのような危険な音を発しているのだ。美しい純白の泡が、混濁した音とは対照的だ。
 そのときである。また、亀頭内に痛みが走った。一瞬だがウゥッ、と思わず声が出る痛みだった。事情を知らない人(私以外の人類すべてだが)が耳にしたら、別なものを放出して快楽の声を漏らしてしまったと勘違いされるような自分でも惚れ惚れする声だった。
 でも、である。
 やれやれ。これで尿道炎まで起こしてしまったんじゃシャレにならない。「尿道に炎症があるので治まるまで手術は見合わせましょう」なんてことになったらたまらない。

 やれやれ。
 ため息をついて、ピッチャーを上にかざし、底からぬくもりあふれる液体を見る。実に変態チックなポーズだ。
 このときに私が心配したのは、尿道の炎症に伴って血が混じっていないだろうか、ということだった。