宮下誠著「カラヤンがクラシックを殺した」(光文社新書)。
ご存知のように(ご存知なければ、ご存知だったことにしておいてくれたら、話が進めやすい、と思う)、私はアンチ・カラヤンの立場にある。
地位を得るためにナチに入党したとか、自分だけ莫大な金を手にしていたとか、そんなことを知る以前から、カラヤンが嫌いだった。
多くのレコード評がカラヤンをたたえようと、どうも彼の指揮する演奏はしっくりこなかった。感覚的、本能的、欲情的に。
だから多くの人は、私がこの本を読んでひじょうに納得し、痛快に思っているに違いない、と思っているだろう(だから、ご存知だったという前提ですってば)。
でも、読後感は爽快ではなかった。何かが引っかかった。口元に釣り針が貫通している釣られたての小魚の姿を思い出した。
著者の本を読むのは2冊目。1冊目は「20世紀音楽 ―クラシックの運命―」(光文社新書)であったが、こちらのほうは感心しきりで読み終えた記憶がある。
しかし今回は、確かになるほどと思う箇所は多々あったが、何か違和感が残ったのであった。
本書で著者は、カラヤンの良い面にももちろん触れているが、基本的には彼の演奏スタイルを否定している。それはアンチ・カラヤン派の私としても十分納得できるところがある(でも、本当のところは感覚的な拒絶感であり、あまり私には理屈はない)。 しかし、彼の演奏スタイルがクラシック音楽のあり方そのものを崩壊に導いたかのような話の展開は、カラヤンには酷だと思う(たとえ、カラヤンはその現象の象徴に過ぎない、と書かれていても)。
《音楽的聴衆の価値観や、ものの考え方、或いは、音楽を聴く余裕のある人たち(その割合は、私たちが思っているより遥かに少ない)の、資本主義、拝金主義、現状肯定主義、クラシックを高等とする、あまりに単純で軽薄な価値観の創造に進んで荷担し、音楽の聴き手の痴呆化を後戻りできないところまで推し進めたカラヤンの負の遺産は未だに消えていない。カラヤンが彼以後の人心に刻み込んだ歪んだ価値観の一元化は根の深いものだ。
そのようなものの考え方、世界の捉え方は、社会的、政治的勝者・強者と共同し、純正な文化環境を破壊し、誠実な知性を圧殺しようとする》と書いているが、多くの聴衆がカラヤンの存在を望んだことも事実。仮に聴衆がバカだったとして、あるいはカラヤンにバカにされてしまったとしても、カラヤンは、例えば「振り込め詐欺の犯人」ではない。
著者の目的は巻頭言で以下のように書かれている。
《20世紀のある時点で、クラシック音楽は見紛うことなく、一つの「死」を経験した。その「死」は、人類という種の、今日における絶望的状況の一断面を鮮やかに浮き彫りにする。
このような事態を象徴的に体現したもののひとりが、ほかならぬ、指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤン、その人である。彼、或いは彼を取り巻く状況は、時代の病理を理想的に反映す鏡である。私たちは、そこに己の姿を映し、見つめ、考えなければならない》
そして「おわりに」では、
《私たちが生きている社会は、目を覆いたくなるほどに悲惨で救いがない。そのような時代にあって、カラヤンが創造し、その後塵を拝するように発展してきたクラシック音楽の価値観、いや、音楽全般の価値観が生み出す「美」や「慰め」や「癒し」はもはや悪い冗談としか言いようがない。この悪い冗談に無自覚に感動し、音楽とは良いものだ、と安閑として日々を送っているのが今日の音楽鑑賞のあり方だとすれば、それは根本的に間違っている。そして、その責任の一端はカラヤンの音楽にあり、それを許し、それを助長し、それを喜んで迎えた私たちの感受性にも大きな問題がある》と書いている。
時代の病理はともかく、音楽の演奏ということに限って言えば、確かにカラヤンは大人気だったが、皆が皆、カラヤンの音楽こそが絶対だと思っていたわけではない。聴衆は果たしてそんなにバカ化したのだろうか?
カラヤンほどでないにしても、大物指揮者、あるいは人気指揮者とされる人はいたのだから、誰もがカラヤンこそすべてと思っていたわけじゃない。
そういう意味で、著者の言いたいことは分かるが、ちょいと言いすぎじゃないのかな、と思ってしまう。こういう言い方って、クラシック=教養主義的な香りも感じるし……
本書では、カラヤンと対比して(「時に対極的にすらなってカラヤンの音楽を鋭く断罪する音楽家」である)クレンペラーとケーゲルについて書かれている。
クレンペラーには個人的にはあまり興味がないが、取り上げられている彼のマーラーの第7交響曲は聴いてみたいと思った。
それからケーゲル。「気味が悪い」と著者が書いている、彼が振ったショスタコーヴィチの第15番はぜひとも聴いてみなくては……
詳しくは本書を読んでいただくとしても、「どうしたわけか全く気の抜けた演奏でケーゲルの
指揮とも思えない。何がケーゲルにあったのだろう?やたらと斜に構え、オーケストラのやりたいようにやらせ、結果、音楽は極めてだらしなくなり、死臭を漂わせさえする」ベートーヴェンの交響曲(オケはドレスデン・フィル)、特に第9をあらためて聴いてみた。緊張感はあるが、うつろで力のない演奏。何かに戦おうという意志が感じられない。「できれば第4楽章は振りたくない」というのが十分伝わってくる終楽章の腑抜けた声楽。よくもまあ、この演奏をリリースしたものだ。レコード会社の英断(?)はたいしたものだ。
これはぜひとも聴くことをお薦めします。
Capriccioの49314(1982-87年の録音)。8枚組で、ベートーヴェンの交響曲全曲のほかに三重協奏曲、聴いていて居心地の悪さを感じる「合唱幻想曲」、ブラームスのドイツ・レクイエム(こちらのオケはライプツィヒ放送響)、そして管弦楽の小品集となっている。
小品集のCDには、著者の宮下誠の妻が、体調が悪いときに耳にして「自殺したくなるからやめて」と言ったというアルビノーニのアダージョも収められている。
このCD、タワーレコードで取り扱っているが、在庫僅少とのことだ(3,990円)。
それにしても、ケーゲルの顔、怖い……
新館入口(2014.6.22~)
御多分にもれず参加中・・・
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© 2007 「読後充実度 84ppm のお話」
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