昨日の朝、風呂場の方から「ぐりゅにゅうーるげりょ~ん」という実に妙な音が聞こえてきた。

 首吊り自殺を図ったものの、ロープのかけかたが不十分で死に切れずに中途半端な状態で苦しんでいるワニのうめき声のような音だ。
 妻は私の方を見て、「どうせまた飲みすぎでオェッとしているんだろう」といった、非難を含む視線を浴びせたような気がした。
 しかし、私は無実だ。それにどんなことをしたって、あのような音を発することは、繊細なのどの持ち主の私にはできない。

 それは洗濯機であった。
 自殺未遂ではない。病気のようだ。
 やつは洗濯槽を回そうと懸命に努力しているのに、洗濯槽が全く回らないようだ。
 そのむなしいあえぎ声が、あの「げりょげりゅきゅーんきょろろ~ん」という音で、モーターが危篤状態なのだ。
 思えばもう11年にわたって、汚い衣類の入った洗濯槽を回し続けてきたのだ。もう辞めたくなったのだろう。なんて悲しい一生であろうか!

 それからが大変である。
 モノがモノだけに、なるべく早く代わりの洗濯機を買わなくてはならない。
 せめて、少し前からもう長くは持たないということをほのめかしてくれていたなら、残された家族も心の準備ができた。しかし、突然死だ。悲しみに浸っている場合じゃない。
 私はたとえどんな事情があるにせよ、カビが生えかかった下着や、犬が失神するような臭気を発する靴下を履きたくない。だから、彼の死は衝撃的であった。

 まさに出勤しようとしていたときにこの事故が起こった。
 だから、あれこれ悠長に次期の待望機種を吟味している暇などないのだ。

 私は「今日、ビックカメラで見て買っておく」と親切に言ったのだが、妻は「あなたにまかせたらまた好みでないものを買ってくるんじゃない?前のオーブン電子レンジのときも、妙に仰々しいのを選んできたでしょ?だから私がベスト電器に行くわ」と、完璧に拒否された。

 
 そのオーブンレンジ。
 私に買い物を任せたところ、彼女の好みにあわなかったのだ。
 私がそのとき選んだのは、別に4ドア式冷蔵庫のように巨大でどういう機能を使うときにどこのドアに何を入れたら良いかわからないようなレンジだったわけではない(そんなもん、あるものか!)。ごくふつうのオーブン電子レンジだったのだが、でも見た目があまりにごっつかったのだ。

 それから20分後。妻から携帯にメールが入った。
 「ビックの売れ筋。東芝××××、ナショナル△△△△、シャープ◇◇◇◇。予算は諸費用込みで3万5,000円以下(この価格でわかるように、ウチで必要なのはごくごくふつうの全自動洗濯機である)。1回の洗濯量は6.0kg。色はグレーが希望。今日か明日中に届くこと」

 つまり、事態急変。おつかいを命じられたのだ。

 彼女は、今朝の新聞に入っていたベスト電器のチラシとビックカメラのインターネット・ショッピングのページを見て、ベストが高いと判断したわけだ。
 
 へい、がってんだ!
 それにしても、そんなに早く配送してくれるものなのだろうか?

 仕事を抜け出し、10時ちょうどにビックカメラに行く。
 開店と同時に切羽詰った表情で洗濯機を買い求めに行く人間がこの世にいるとは、これまで思ってもみなかった。まして、その当事者に自分がなるなんて……

 エスカレーター横に張ってある「即日、翌日配送実施中(当店在庫品に限る)」というPOPに、安堵するとともに心がはやる。
 購入が遅くなったら即日配送は無理かもしれない。「今日の配送分の受付は、10時10分で締め切らせていただきました」ってことも想定しておかなくてはならないのだ。

 洗濯機売場に行く。
 妻が書いてよこした機種は3つとも展示されていた。

 ナショナルのはちょっと高さがあって威圧感がある。東芝のは3つのうちでいちばん価格は安いが消費電力が大きい。シャープのがいちばん価格は高いが(けど予算内)、消費電力も少なく節水タイプでもあり、色もグレー系で、私も叱られずに済みそうだ。サイズもいちばんコンパクトである。しかも洗濯槽に穴がなく(詳しいカラクリはわからないが)、カビが生えにくい。さすが技術のシャープである。

 あたりには店員が徘徊していないので(客もいない。かつての「食の祭典」会場のようだ)、レジカウンターにいたお姉さんに尋ねる。
 「あのシャープの洗濯機ですが、今日か明日中に届けてもらえますか?」
 お姉さんは端末機で調べ、答える。

 「30日になりますね」

 実に明快に人の期待を裏切る言葉だ。そこには顧客に残念がる隙を与えない客観性が満ちあふれている。なぜ30日になるのか、その背景を言い訳がましく言わないところが、店員という身分を放棄している。

 私はすっかり“シャープ・モード”になっていたが、一応ナショナルの場合の配送日も聞いてみた(でも、こうなってしまっらシャープ以外の製品を買う意欲はまったくなくなっている)。

 お姉さんは、また端末をカチャカチャやって「25日ですね」と、区役所窓口の住民票係みたいに言う(いまなら区役所の窓口係の方が、まだ愛想がいいかもしれない)。「シャープより5日も早いのよ。それで何が不満なの?」っていう目力。
 キャイン、キャイン。そんなに突き放さなくてもいいのに……

 「そうですか……。では、けっこうです」
 そう私が答えると、お姉さんは「またよろしくお願いします」と、はじめて接客業らしい笑顔になった。私は招かざる客だったのだろうか?それとも、彼氏と昨日別れて、洗濯機どころじゃなく、自分の心の洗濯中だったのだろうか?私は善意で「あなたの心に全自動!」と慰めるべきだったのだろうか?

 それはそうとして、私は焦ってきた。
 今日明日中に洗濯機が届くようにしなければ。

 飛行機に乗り遅れそうで空港内を急ぎ足で歩いているサラリーマンのように、そのままヨドバシに向う。

 シャープの同じ機種があった。
 「い、いつ、と、届きますでしょうか?」
 店員さんが調べる。さらにどこかに電話をかけている。

 「22日の月曜日になります。店に在庫はないのですが、メーカーに3台だけ在庫があります。3台では足りませんか?」
 「2台ほどお釣りが出るくらい足ります。ちょっと待ってください」

 私は妻に電話をかける。
 「明後日になるけどいいだろうか?シャープの製品だけど」
 「シャープのだったら今朝のベストのチラシに載っていたからベストに行けばすぐ届けてくれるんじゃないの?5.5kg洗いだけど」

 うぉ、新たな条件提示だ。でも、6.0kgという指定だったのでは?
 「で、いくら?」
 私は価格を教える。

 「あら、ベストの5.5kg洗いの方が高い。じゃ、それでいいわ」
 なんとなく安堵する私。

 私は気を取り直し、店員さんに「これを1台下さい」とお願いした。ついでに、「ビックではここよりも1,200円安かったんですが……」と試しに言ったところ、ちょっぴり悩んだ末に、その価格まで下げてくれた。

 これで私は無事ミッションを終えた。“初めてのおつかい”なみのハードさであった。
 それにしても、ビックとヨドバシでこれほど納品日に差が出るとは意外だった。
 どちらかというとヨドバシよりもビックを利用することが多い私としては、ビックで買いたかったのだが……(あくまで、ポイント上の話)

 その原因として考えられるのはビックのお姉さんの……、いや、よそう。