札幌交響楽団の第514回定期演奏会の評が、金曜日(19日)の北海道新聞夕刊に載っていた(こういう記事が載るから、私には朝刊だけ購読というふうにはできない)。今回の執筆者は北海道教育大学の中村隆夫教授。

 ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」を弾いた舘野泉について、「……元来が作品の内面と向き合うタイプの舘野は、この曲のもつ幽玄な世界に焦点をあて、味わい深い表現で全曲を弾き通した。長年彼の演奏を聴いてきた私は、演奏後の拍手を受けるそのものに感動を禁じえなかった」と書いている。

 札響の514回定期については、私も6日に聴いたBプロのことをこのブログに書いたが(12月7日)、私は中村氏とは逆に、彼が最初にステージに姿を現したときに「ググッ」とこみ上げるものがあった。もちろん終演後も、ホールのほかの聴衆と同じようにその演奏に拍手をおくったが、舘野の独奏にミスが少なくなかったために、ちょっと醒めてしまってもいた。
 中村氏はピアノ独奏そのものについて詳しくは書いていないが、氏が聴いたAプロ(5日夜)のときにはミスがあまりなかったのだろうか?

 それとも、最近は小姑のようにミスタッチが〇回あっただの、オケの何がどこで間違っただの、音がひっくり返っただのと指摘するのは流行らなくなっているのだろうか?
 まあ、そういう指摘ってのは確かにあまりみっともいいもんじゃないからね。

 でも、これってフジ子・ヘミングがもてはやされたときのことを思い出させる。
 「感動的だ!」「あんなに間違ってばかりでどこが感動的なんだ?」っていう論争(というのはウソに近い大げさな表現だけど)だ。

 フジ子・ヘミングはこう語っている。
 「私の演奏を聴いてミスタッチが多いとかあれこれいう人がいるけど、そんなことは気にしないわ。だってピアノは人間が弾くものでしょ。少しくらいまちがったっていいじゃない。私は機械じゃないんだから。自分の弾きたいように弾くわ。昔からそうしてきたもの」

 「昔からそうしてきたもの」っていう言い方は好きではないが、彼女の言ってることにも説得力はある。でも、要はバランスじゃないだろうか。表現力があっても技術がダメならいただけないし、その逆もそう。両方すばらしいのが理想なんだろうけど、理想は理想だ。
 あの定期で私がちょっとがっかりしたのは、舘野のすばらしい表現力に対して、タッチのミスが気にならない程度でおさまらなかったことだ。まっ、どうせ私は意地悪ジジイですよ、ってことで手を打ってもいいけど。

 断わっておくが、私は舘野泉が好きである。フジ子・ヘミングは変に流行的に騒がれたこともあって(それは彼女のせいではないけど)特に聴きたいとは思わない。

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39bb2647.jpg  インバルがウィーン交響楽団を振ったショスタコーヴィチの交響曲第15番のCDを買ってみた。
 いやぁ、いいわぁ!
 これまで個人的には最高だと思っていたザンデルリンク/クリーヴランド管の演奏より好きかも知れない。
 インバルの演奏の特徴であるが、このショスタコでもとても見通しがよい。この交響曲の精緻な音の絡み合いがよく聴こえる。遅めのテンポで進む終楽章のパッサカリアのピークでは、他の演奏では経験できない顕微鏡的な視野が広がる(細かいところまでよく聴こえるという意味です)。そして、感情的にならない客観的なスタンスもこの作品に合っている。第1楽章の大太鼓の音も素敵!(私は大太鼓の音が好きなのだ)。
 実用的かどうかはわからないが、このCDは細かくインデックス分けされているのも便利(言ってることが矛盾しているか?)。たとえば第1楽章は「主要動機とその展開」「第2主題」「ロッシーニ引用:第1回目」「主要動機展開、無窮動、第2主題」……といったぐあいに、18にインデックス分けされている。
 DENONのCOCO70709。1992年の録音で、カップリングは交響曲第1番。こちらの演奏もとても見通しがいい。