土曜日に入院中の父のところへ行ってみた。
 この日はひどい天気で(結果的にはJRの運休が275本、新千歳空港発着の飛行機が157便が欠航したとの新聞報道である)、家にずっとおこもりしていようと思ったのだが、昼に突然陽が出て晴れ上がったので、買い物ついでに見舞いに行くことにしたのだ。
 そろそろ一度病院に顔を出さねばと思っており、天気が回復するであろう日曜日にしようかと思ったのであるが、やっぱり面倒なことは土曜のうちに済ましてしまえとばかり、お天道様の顔を見るや否や、出かける決意をしたのであった。

 ところがどっこい、家を出るとすぐにまた猛吹雪。
 道路はガタガタ、グワグワで、ノロノロ運転。病院に着くまでに1時間以上かかってしまった。

 父親は前回(1ヶ月ほど前)に見た時よりも、多少顔色が良くなっていた。
 もともと口数は少なく、動きもイライラするほどのんびりしたタイプなのだが、病床の彼は、雄弁になるわけもなく、しかも薬でぼーっとしているのか病気のせいなのか、中川昭一ほどでないしても、言動の一つ一つを紡ぎだすのに時間がかかり、かかった末に口から出てくる内容も、さして興味をひくものでもなかった(例えば、「今だから話すが、巨額の財産を隠している」などだったら、ずっと話を聞いてあげるところだ)。
 そんなこととで、特に積もった話もないので、滞在20分でおいとま。

 帰りも悪天候、悪路を走行し、途中、中途半端な規模のショッピング施設に寄り、半額になっていたネクタイを3本買い、ちょっぴり儲けた気分になったのもつかの間、そのあと、別なコーナーで「フレッシュマン・フェア」と銘打って、1本500円のネクタイが売られているのに気づいた。失敗したような、「いや、あんな派手っちいネクタイは所詮買わない」、「一回締めたらほどけ散るに違いない」などと酸っぱいぶどうのキツネのような気持ちになってしまった。しくしく……

 買い物の後、さらに悪路、悪天候の中、家に向かい(途中、横転しているワゴン車を見かけた。いかにも塗装業者や水道工事業者が愛用しそうな白のワゴン車であった。きっと雪にハンドルをとられた挙句、疲労感を呼び起こされた車は寝ころびたい衝動にかられたのだろう)、晩酌をして、夜9時にはウトウトして、這うように洗面所に行き(トイレのことではありません)、あっというまに寝入ってしまった。
 って、まるでできの悪い中学生か、出来の良い幼稚園児の日記みたいだ。

5cd05151.jpg  先日、許光俊の「クラシックを聴け!完全版」なる文庫本を購入した(ポプラ社)。許光俊とか鈴木淳史とか、なかなかおもしろい文章をかいてくれる人がクラシック音楽の出版界に登場して久しいが、いまだその輝きを失っていないのは頼もしい。

 この本は、今から10年ほど前にもともと青弓社から出版されていたもの。つまり、この手のクラシック本のはしりとも言える。それが文庫化された。2009年2月5日第1刷だから、できたてのほやほや。

 青弓社時代のものを読んではいないので、私にとってはこの本は初読み。
 う~ん、まだ許氏にもちょっぴり気負いが感じられる。
 それでも、音楽の魅力について、あるいは、クラシック音楽に関する誤った常識などについて、わかりやすく取り上げてくれている。ちょっと強引なところもあるけれど。

 そのなかで取り上げられている、シューベルト(1797-1828)の交響曲第7番(旧第8番)ロ短調「未完成」D.759(1822)について、私のちょっとした思いを。
 この曲の「凄さ」については、許氏がたっぷりと本書のなかで書いてあるので、私がどうこう書くようなことはない。けど、ちょっとだけ、いいかしら?

 シューベルトの「未完成」といえば、LPレコード時代には、ベートーヴェンの第5番「運命」と、A面B面の表裏に仲良くカップリングされているのが、ほぼ定番であった。汗臭い男の愛って感じだ。
 とはいっても、私はそういうLPを持っていなかった。実は、私は「運命」のLPを、ついぞ買わずに終わってしまったのだ。あるいは「未完成」のLPを。そうこしているうちに、気がつけばCDの世に。
 それはそうとして、何で「運命」+「未完成」なんだろう?たぶん、いや十中八九、収録時間がLPのそれにぴったりだったのと、特に「運命」は人気曲だったから、その裏に入れるのは、なんとなくタイトル的にもストーリー性がありそうな「未完成」にするのが「規格」として成立したんじゃないかと思う。それにクラシック音楽といえば、(入門も含めて)ドイツ系の音楽以外ないという、いろいろな筋の陰謀もあったに違いない。

 実際、こういうLPで「未完成」を知ったという人は、とても多いらしい。
 でも、私は違った。
 エアチェックで録音して知った。

 「それにしてもどこが名曲何だろうな」というのが、若かりし頃の私の正直な感想。
 当時は、未完成に終わった作品ということがことさら強調されており(完成させずに無念にもシューベルトは世を去った、など)、そういうお涙ちょうだい的な物語があることも、この曲を有名にしたのだろう(「未完成交響楽」という映画のせいもあるようだ)。

 しかし、歳を重ねるうちに、この曲が「いいなぁ~」と感じるようになった。
 「無念にも世を去った」などという、ほぼ間違いなく嘘っぱちな背景など関係なく(単純に作曲年を見ても、死の6年前なのだ。たぶん、「2楽章まで書いたら、もうそれで完璧だぜ。あとはヤーメタ!」ってシューベルトを考えたのだろう)、この曲はいい。
 許氏はこの曲を「恐ろしい」というが、確かに異様な恐ろしさを持っている(特に第1楽章に私はそう感じる)。
d92ad7d9.jpg  続く第2楽章の美しさ!単に第2楽章を「美しい」で済ましてはいけないんだけど、細かな話は許氏の本を読んでいただくとして、とにかくこの対比がすばらしい。
 坂本良隆さんなるお方は、全音スコアの解説で「未完成交響曲」のことを、「音の中の美しさのすべてが表現されている不思議な作品である、そして旋律の祝福に満たされているが、シューベルト自身の他の作品や歌曲からの影響すらも認められない特異性をも持っている」と書いているが、許氏ならば、「そんな簡単なもんじゃないっ!」って言いそうだ。

 そんなわけで(どんなわけ?)、この曲は私にとって、「悪の大王」が出てきそうな第1楽章でさえ、ときおり懐かしくて無性に聴きたくなる音楽となってしまった。う~ん、大人になった証拠かしら?

 この曲の演奏では、最近私は、ジュリーニがシカゴ響を指揮したCDを聴くことが多い。ジュリーニって可もなく不可もなくって感じの人だが、変にアクがないところが好感をもてる。アクがないと言っても、面白くないというのとは違う。安定感のある巨匠の演奏だ。
 グラモフォンの463 609-2(2枚組。輸入盤)。マーラーの第9交響曲とのカップリング(「運命」じゃないもんね……)。現在は廃盤のよう。
 どうでもいいことだけど、ジュリーニのような帽子をかぶって通勤している人が、ウチの会社にもいるが、全然変だからやめた方がいいと思う。面と向かっては言えないけど。

 いま思い出したが、小学校の卒業文集で「将来なりたいもの」というページがあった。
 同じクラスのある男の子が「電気機関車」と書いていた。なれるもんなら、なりゃあいいじやん。
 別なクラスのある男の子は「少しでも完全な人間になりたい」と書いてあった。
 それを目にしたとき、私は「すっごいなぁ。こんなこと考えたこともなかった」と感心したものだったが、今思えば「バッカじゃないか」と思ってしまう。こういう奴に限って、いつまでも未完成のままのような気がする(そして「人生、死ぬまで成長ですから」なんて言って歩いていそうだ)。