昨日書いたように、高校を卒業したと同時に病に倒れ、そのまま帰らぬ人となったA君。
W.F.バッハのファンタジアのほかに、彼が亡くなったころの漠然とした空気を思い出させるもう1つの曲が、C.P.Eバッハ(1714-88)の「ソナタ ニ短調Wq.57-4」である。
短調の調べが、なんとも言えない悲しく厳しい気持ちにさせる。
流麗で音の一粒一粒がきらめいているのが、かえって切ない。
耳にするたび、自分の心の奥底に置かれている、「青春時代」という名の記憶棚の「陰」という引き出しを開けられたかのような、ちょっと重い気持ちにさせられる(でも、「陽」という引き出しのなかはほぼ空っぽだろう。でも、多くの人にとっても、青春時代の思い出は「負」のものの方が多いのではないだろうか?)。
でも、聴かずにはいられない。この曲を封印することはできない。
これってマゾ的なのかなぁ……
このソナタは、「識者と愛好家のためのロンド付きピアノソナタ集 第3集」という作品の第4曲にあたる。
私は当時、単独でこの1曲を知っただけだったが、このソナタ集というのが、これまたなんともすごいボリュームである。 「識者と愛好家のための」という曲集は全部で6つあり、曲集のタイトルは微妙に違う。
たとえば、第1集はソナタ集だが、そのあとはロンドが加わり、さらに後半は幻想曲も加わる。
また、第1集はクラヴィア・ソナタとなっているが、第2集以降はピアノ・ソナタとなっている。ただし、原題は「クラヴィア」である。
「ピアノ」と邦訳されているのは、おそらく第2集以降に収録されている楽曲が、強弱を自由に弾けるハンマー・クラヴィーアを意識して書かれていることを考慮しているためだと思われる。
クラヴィアというのは鍵盤楽器の総称だが、強弱が表現できないチェンバロから、強弱が弾ける、ピアノの前身であるハンマー・クラヴィーア向けへと書法が変わっていっているのだろう。
ここでいう識者というのは専門家のこと。おそらく職業音楽家のことだろう。
そして愛好家というのは、文字通り音楽愛好家のことだが、今の世の中と大きく違うのは、当時の愛好家というのは、もっぱら自ら演奏して音楽を楽しんだ人たち、ということである。それはもっともなことで、なんといっても、当時はラジオもLPもCDもなかったのである。音楽鑑賞=愛好家という図式はなかったのだ。
つまり、音楽を専門とする人も、クラヴィアを弾くのが趣味の人も、この曲集で練習しなさい、ということなのである。
第1集は6曲、第2、3集は6曲(ロンドとソナタのセットが3組)、第4集は7曲(ロンドとソナタのセットが2組、ロンド単独が1、幻想曲が2)、第5集は6曲(ロンドとソナタのセットが2組、幻想曲2)、第6集は6曲(ロンドとソナタと幻想曲のセットが2組)である。
念のため、全曲を記しておこう。何の「念のため」か、よくわからないけど。
◆識者と愛好家のための6つのクラヴィア・ソナタ 第1集Wq.55(1799刊)
1.ハ長調/2.ヘ長調/3.ロ短調/4.イ長調/5.ニ短調/6.ト長調
◆識者と愛好家のためのロンド付きピアノ・ソナタ集 第2集Wq.56(1780刊)
1.ロンド ハ長調,ソナタ ト短調/2.ロンド ニ長調,ソナタ ヘ長調/
3.ロンド イ短調,ソナタ ハ長調
◆識者と愛好家のためのロンド付きピアノ・ソナタ集 第3集Wq.57(1781刊)
1.ロンド ホ長調,ソナタ イ短調/2.ロンド ト長調,ソナタ ニ短調/
3.ロンド ヘ長調,ソナタ ヘ短調
◆識者と愛好家のためのロンド付きピアノ・ソナタと自由な幻想曲 第4集Wq.58(1783刊)
1.ロンド イ長調,ソナタ ト長調/2.ロンド ホ長調,ソナタ ハ長調/
3.ロンド 変ロ長調/4.幻想曲変ホ長調/5.幻想曲イ長調
◆識者と愛好家のためのロンド付きピアノ・ソナタと自由な幻想曲 第5集Wq.59(1785刊)
1.ソナタ ホ短調,ロンド ト長調/2.ソナタ変ロ長調,ロンド ハ短調/
3.幻想曲ヘ長調/4.幻想曲ハ長調
◆識者と愛好家のためのロンド付きピアノ・ソナタと自由な幻想曲 第6集Wq.61(1787刊)
1.ロンド変ホ長調,ソナタ ニ長調,幻想曲変ロ長調/
2.ロンド ニ短調,ソナタ ト長調,幻想曲ハ長調
現在は廃盤のようだが、私は全曲集としてcpoの999 100-2(1991年録音。4枚組、輸入盤)を持っている。演奏はGabor Antalffy。曲によってチェンバロとハンマー・クラヴィーアを弾き分けている。
CDでは収録作品名のWq.番号が55-60となっているが、Wq.60は別作品。第6集はWq.61が正しいと思われる。 その根拠は、三省堂の「クラシック音楽作品名辞典」では第6集がWq.61とされている点。さらに、現在販売されているC.P.E.バッハのクラヴィア・ソナタを収めたCDを調べてみると、全曲盤というのは見当たらないが、たとえば「幻想曲ハ長調Wq.61-6」というように、曲名とWq.61での番号が一致するからである。
ただ、ではいったいWq.60はなんという曲かということについては、今回調べきれなかった(*1)。
なお、抜粋盤としては、塩釜(もちろん地名の塩釜です)生まれのピアニスト・鶴田美奈子のピアノ演奏によるものがNAXOSから出ている。収録曲は、Wq.59-4、Wq.59-1、Wq.58-5、Wq.61-6、Wq.57-3、Wq.56-2、Wq.57-5、Wq.55-4、Wq.61-1である。私に意地悪するかのように、Wq.57-4は割愛されているけど……
NAXOSの8.551210。2002年録音。
*1) その翌日、インターネット上で、Wq.60は鍵盤楽器のための「ソナタ ハ短調」(1766)であるらしいことがわかった。