きのう新千歳空港に行ったが、予想に反して空いていた。
 みんなゴールデンウィークでお金を使っちゃって、移動自粛期に入ったのだろうか?
 それとも、新型インフルエンザを警戒して、移動恐怖期に入ったのだろうか?
 マスコミの取り上げ方が「異常に過度」だとは思うが、新型インフルエンザが流行してほしくない、というのは皆の共通意識だろう。でも、きのう一日見ていても、マスクをかけている人はすっごく少なかった。私もマスクはしていない。
 
 インフルエンザ→咳→胸の病、という連想から、また、いま仙台に来ていることから、今日は早坂文雄(1914-1955)。
 曲は「序曲ニ調」(1939)。

6e846ad5.jpg  早坂文雄は仙台市の生まれである。しかし、幼少時に札幌に移った。
 中学卒業とともに就職したが、そのころに同じ1914年生まれの伊福部昭(1914-2006)や、のちに音楽評論家となった三浦淳史(1913-1997)と知り合った。
 音楽への夢を捨てきれずにいた早坂は、伊福部と伊福部の兄らと室内合奏団を結成するとともに、1934年には「新音楽連盟」を立ち上げ、札幌で現代音楽祭を開いた。

 1935年から札幌の教会のオルガニストを務めるようになったが、その間に作曲した「2つの讃歌への前奏曲」が日本放送教会の懸賞に入選した(1936年放送初演)。
 また、札幌にチェレプニンがやって来たときには、伊福部昭とともに、大きな影響を受けた。

 1938年に「古代の舞曲」(1937)がワインガルトナー賞の優等賞を受賞するが、この年に胸の病気を患う。翌年、東宝の植村社長に認められて東京に行き、音楽監督として東宝に入社した。
 1941年には日大芸術科の講師になったが、翌年に肺浸潤となり医者から2年間の療養を告げられ入院。1944年に退院し仕事を再開したものの、再発、再び療養を余儀なくされる。

 終戦後は、一時期、札幌に戻ったが、1946年に再び東京に戻った。
 そこで、札幌から上京していた伊福部昭らとともに「新作曲派協会」を結成している。
 映画音楽の分野でもいくつかの作品で音楽賞を受賞したが、伊福部昭が映画音楽を書くようになったのも、早坂のアドヴァイスがあったことによるという。

 病状は一進一退で、1955年10月に容態が急変し亡くなった。 

 札幌で伊福部昭と意気投合した早坂であるが、2人の作風はずいぶんと違う。
 早坂の音楽は、伊福部よりも繊細で優雅、民族的というよりも日本的といった感じがあるが、このあたりはとっても微妙。ぜひ、実際に耳にしてみていただきたい。

 「序曲ニ調」を私が初めて聴いたのは、札響の特別演奏会においてだった。
 途中、歩道の段差で足を踏み外したような、クイッとした音の下降(変調)がおもしろいと思ったのだが、のちにCDで聴くとどこだかわからなかった。やれやれ……

 おぉっ!「七人の侍」が書かれたのは、伊福部の「ゴジラ」と同じ年だったんだぁ。