e0489ec4.jpg  エルガー(Edward Elgar 1857-1934)の交響曲第1番変イ長調Op.55(1907-08)。
 「変イ長調」という調性は、このように入力しているときにちょっと指が先走ると「屁ニ長調」と変換されてしまうので予断を許さないものである。

 H.C.ショーンバーグに言わせれば、《シュトラウスやマーラー同様、エルガーも大音響に喜びを感じる作曲家だった》(「大作曲家の生涯」:共同通信社、1978年(絶版))わけだが、交響曲第1番もゆったりとした雄大な音楽やちょっと女々しいメロディー(女性を蔑視しているわけではない)、そして大絶叫の喜びが備えられている作品である。

 エルガーの作品中、私にとって交響曲第1番は「エニグマ変奏曲」と並んで大好きなものなのだが、残念ながら生で聴いたことはない。
 20数年前だったと思うが、札響の定期演奏会で演奏されたことがあった。その日はどうしても東京に出張に行かなければならないハメに陥り、その生演奏を聴けなかった。
 その夜の演奏は、後日FM北海道で放送されたが、それがまたすごく良い演奏というか良い曲だった(私がエルガーの交響曲第1番を耳にしたのは、このときが初めてだった。もし演奏会に行っていたなら、新たな名曲との出会いにちびっていただろうに……)。

 ところがその数ヵ月後に、札響が定期とまったく同じプログラムで東京公演を行なうことになった。私は何とか用事を作ってその日東京に出張できないかと画策したが、やっぱりダメだった。しくしく……
 ということで、生で聴けてないのである。
 「あぁ、生はすばらしいんだろうなぁ」とHっぽいため息をつきながら嘆く私。

 パーセル(Henry Purcell 1659頃-95)亡き後に、200年の間続いたイギリス音楽の不毛の時代。エルガーはそのあとに登場した作曲家である。
 パーセルのあと、イギリスにその後継者は現れなかった。ヘンデルが活躍したが、彼はドイツから渡ってきた人物だった。
 そのあとにイギリスに強い影響を与えたのは、これまたドイツ人のメンデルスゾーンだった。ヴィクトリア女王は、すべての音楽がメンデルスゾーンの作品のようであることを望んだという。こうしてエルガーが出現するまでイギリスでは1人として大作曲家は生まれなかった。
 イギリスが生んだ大作曲家・エルガーの人気はすごかった。しかし、その後急速に降下。1960年代になって再び上昇した。

 ショーンバーグはエルガーの交響曲について、《2つの交響曲は後期ロマン派系の長大な作品で、ブラームスの伝統を多分に受け継ぐとともに、シュトラウスの感触をも留めている。いずれも力感にあふれた名曲で、典型的なエルガーの旋律が用いられており、作曲者の満足感がひしひしと伝わってくる。これらの交響曲は人気を回復しつつあり……》(同)と書いている。
 この本は30年以上前に書かれたものだが、その後エルガーの交響曲の人気がさらに高まったとは言えないのではないか?
 ただ、国内版スコアが出版されるまでにはなったというのは注目度が上がっていることなのだろう(オイレンブルク・スコアによる全音のものと、日本楽譜出版社からも出ている。こんなことなら高かったオイレンブルクの輸入譜を買うんじゃなかった)。
 エルガーの作品で、近年いろいろな形にアレンジされて聴かれているのは行進曲「威風堂々第1番」である。これがなぜこんなに急速に人気が出たのか私にはわからないが、すごい普及度である。
 彼の交響曲に話を戻すと、2曲の他に未完の第3番というのがあり、ペインが補筆完成している。

8ca59639.jpg  私が持っている交響曲第1番のCDは2種類で、1つは“サー”の称号まで与えられている、ショルティがロンドン・フィルを振ったもの(1972年録音。DECCA 475 8226(輸入盤))。

 もう1つはブライデン・トムゾンが同じロンドン・フィルを振ったもの(1985年録音。ChandosのCHAN8451(輸入盤))である。

 行司軍配はトムゾンの方に上がる(このたびの行司は私である)。あくまでも2枚を比べたら、という了見の狭いなかでの判断だが。

 ショルティの演奏は、これが彼の特徴でもあるが、ちょいとドライすぎる。それがこの曲にはどーかなーって思う。
 この交響曲では、朝鮮の泣き女よろしく、泣きわめかなきゃならないところもある(特に第4楽章の中間あたり)。マーラーの「大地の歌」とは対照的な叫び方で、悲しみのなかでのたうちまわらなきゃならないのだ。
 このあたり、ショルティは「でも、僕の場合は強いんだもん」みたいなところがある。f610a8f8.jpg まっ、最後は勝利的爆発で終わる曲ではあるけれど。
 それとショルティは都会的すぎるかも知れない。交響曲第1番の(あるいはエルガーの曲の多く)の演奏には、かすかな田舎臭さというか、センスのズレみたいなものが必要である気がするのだ。
 通勤時のサラリーマンの中に、1人だけカウボーイハットをかぶった奴がいる。そんなようなズレが(本人は、良い、似合っている、おしゃれ、と思っているのは言うまでもない)。
 ということで、ねっとりしっとりしているトムゾン盤の方が私は好きである。
 ちなみに、同じエルガーでも「エニグマ変奏曲」の演奏では、ショルティの音楽作りは成功していると思っている。この曲の方が、ドライ風味に合っているのかもしれない。

 ちなみに今年の札響の東京公演(11月)は、またまた尾高忠明がエルガーを演る(11月定期と同じプログラム)。
 彼のエルガー病もけっこう深刻なものだ。去年はエルガーの未完の第3交響曲を演った
 都会的センスの尾高は必ずしもエルガーに適しているとも思えないが、本人が自信を持っているのだからきっと良い演奏が期待できるのだろう。

 イギリスといえば、ガーデンの国。
 バラもD.オースティンが育種したイングリッシュ・ローズがすっかり有名になった。
 ということで、本日は私が育てているイングリッシュ・ローズのなかからティージング・ジョージアを載せてみましたです。