もう古新聞になってしまったが、指揮者の若杉弘が亡くなった。7月21日。多臓器不全によって。74歳であった。

 私が若杉の指揮する演奏を生で聴いたのは一回だけだ。
 1996年3月18日の札響第378回定期演奏会。曲目はマーラーの交響曲第9番だった。
 私がマーラーの9番を生で聴いたのは、いまのところ、このときの演奏だけである。
 白熱した演奏だった。でも、ちょっと雑な感じがした。

 私が受けた印象とはまったく関係ない話だが、後日FM放送で若杉がこの日の演奏会について語ったとき、「マーラーばかりやるとオーケストラの音が荒れてきます」と言っていたのが記憶に残っている。
 ばっかりやってなくても、その日の演奏は音が荒れていたように思う。

[E:note]

 今回私は、「若杉弘のCDって何を持っていたかな」と確認してみた。意外なことに現代日本の作品のCDしか持っていなかった。そんなこともあって、若杉弘って名前も顔もよく知っていたが(楳図かずおを思い出してしまう私は変だろうか?)、どうも縁がない感じがしていたのはそのせいだったようだ。
 持っているCDは、伊福部昭の「リトミカ・オスティナータ」(1971年録音。これは名演)や、三善晃のヴァイオリン協奏曲や、別宮貞雄のヴィオラ協奏曲など。「リトミカ・オスティナータ」はすごくよく聴いたが、別宮や三善の曲は1回聴いただけって感じだと思う。
 しかし、もう1つ、随分と聴いている演奏がある。清水脩の合唱組曲「山に祈る」である。
0d044d1c.jpg  「山に祈る」と、若杉によるこのCD演奏については2007年9月20日に記事を書いている。若杉の演奏はとても合唱が美しく揃っていて、好感がもてる。ちょっと優等生っぽい感じすらする。この曲のナレーターでは加藤道子がはまり役だが、若杉の演奏では河内桃子が務めている。加藤よりもちょっと若くてかわいらしい母親って感じの語り口である。モモコ……

 ここでは「山に祈る」について、CDのライナーノーツなどを参考に、そのときよりももう少し詳しくここで書いておこうと思う。

 清水脩は合唱運動を続けるかたわら、作曲活動を行なった。
 寺院に生まれ、また父が楽人だったため、幼少の頃から雅楽、お経、筝に親しんだという。
 大阪外語学校卒業後、東京音楽学校で学び、卒業後の「花に寄せる舞踊組曲」が第4回音楽コンクール作曲部門に第1位入賞、作曲家としてスタートするが、戦後になって本格的な活動をはじめた。
 全日本合唱連盟の設立に参画したほか、プロ、アマ含めた合唱活動の振興と普及に尽力した。

 もうかなり前からのことだが、雑誌「レコード芸術」に長木誠司が「運動としての戦後音楽史」という連載を書いていた(たぶんこの連載は昨年か一昨年あたりまで続いていたと思う)。
 そのなかで何回かにわたって合唱運動についても詳しく触れられていた。1948年に全日本合唱連盟が誕生し徐々に合唱コンクールが盛んになったが、そのころに清水脩が書いた文章がここで紹介されていて、私にはとても印象に残った。

 《採り上げる作品のスタイルも、合唱界はあえて先進的な作曲技法から距離を置こうとする傾向があった。当事者がアマチュアだからである。清水脩は、1960年暮れに行われた、とあるアマチュア合唱団の演奏会プログラムに十二音技法ばりの作品があったことに眉をひそめている。
 「ぼくの腑に落ちないのがあった。合唱団の名をあげるのははばかるが、曲目の中に、とてもアマチュアでは手に負えない曲を、これみよがしにかかげているのがあった。つまり、いまはやりの十二音音楽まがいの曲である。
 青臭い『文学青年』に似て、そのひけらかす態度には、鼻持ちならぬものがある。
 合唱団が、何を歌おうと勝手だが、かれら団員の間で交わされているであろう、青臭い議論が、招待状の白い紙から、ぷんとにおってくるようである。
 それだけ力量があるなら結構だが、どう見ても、力があるとは思えないのだから、噴飯ものだ。
 アマチュアはアマチュアらしくあれ、というのがぼくの持論だ。」》

 長木は清水のこの講評(批評)を紹介した後、《ここには合唱連盟の目指す、ジレンマを内包した「アマチュア」精神が集約されている。それは、もう一つのアマチュア精神であるはずの「チャレンジ精神」とは無縁である。最大の価値はおおらかな趣味人としての完成度だ。でも、それはプロのそれであってはならない。あくまでも「道楽」としての技術的完成度こそ肝要である。究極のアマチュア音楽家がそこでは求められているが、合唱は同時に“実験”を糧にする歴史の先端からは遠く離れていくことになった》と続けている。

 清水脩が“噴飯”物と攻撃しているように、清水自身は合唱音楽作曲家として「山に祈る」のような親しみやすい曲を書いた(といっても、私は氏のほかの曲をそれほど知っているわけではないが)。

 合唱組曲「山に祈る」について、清水脩は1960年の出版時に以下のように書いている(ここに転記するにあたって、一部の漢字等の標記について修正してある)。

 《この曲はもと男声四重唱と小管弦楽のためにかかれたものであるが、出版にあたり、移調などをして多人数の合唱団用に改編し、ピアノ伴奏付としたことを最初におことわりしておきたい。
 昭和34年秋、長野県警察本部では、山での遭難の頻発に業を煮やして、遭難者の遺族たちの手記を集めた「山に祈る」という小冊子を発行して、遭難防止を訴えた。ダーク・ダックスは、その巻頭に載った、上智大学山岳部の飯塚揚一君の遭難を、同君の残した日誌と同君の母親の手記によって、一篇の合唱組曲に作る企画をたて、私はその構成、作詞、作曲を依頼された。
 この曲を作るに当たって、私は前記「山に祈る」の小冊子を中心に、春日俊吉氏の「山岳遭難記」、上智大学山岳部誌「モルゲンロート」、「マウンテン・ガイド・ブック」、地図その他を参照したが、特に遭難当時のパーティであった上智大学山岳部の学生諸君から、じかに当時の模様を聞くことができたのは幸いであった。それは、雪山登山とその遭難について、できるだけ嘘のないものを書きたいと思ったからである。しかし、これは音楽物語であるために、いくらか誇張されたところもあるし、フィクションもある。また、私自身の山への思慕も盛った。
 内容は前述の通り、一遭難者が書き残した最後の手記と、わが子を亡くした母親の悲しみとを、母親の朗読と歌とで進めたものであるが、曲はできるだけポピュラーなものにしようと努めた。誰もがすぐに口ずさめる平易なメロディーで埋めた。
 全体の構成の上で特に言っておきたいのは、母親の朗読で物語の筋を進め、歌はその外側にあって、物語の情景や情緒を表現する役目を果たしていることである。従って、主人公の元気な姿から死にいたる筋に合わせて、最初の「山の歌」から、最後の「お母さん、ごめんなさい」にいたる6曲の歌は、明るい曲調から次第に暗い曲調へ移ってゆくようにした。
 この曲の初演の時は、栗山昌良氏に演出を、今井直次氏に照明を担当していただいたが、多人数の合唱団が演奏する際には、特に演出の必要もない。ただ、演奏に際し、ごく大切な一、二の注意を述べておこう。
 朗読の母親の年齢は44、5才。テノール2人、バリトン、バス各1人のせりふと朗読は、合唱団員が担当すること。母親の朗読は聴者によく解るよう配慮し、終末に近づくに従って悲しみの感情が強くなるようにすること。朗読だけはマイクロフォンを用いるのがよい。
 最後に、この曲が、頻発する山の遭難防止に少しでも役立てば、作者として望外の喜びである》

 作者が書いているように、この曲は男性4人のヴォーカル・アンサンブル“ダーク・ダックス”の委嘱によって書かれた。最近ではこういった形態のグループをTVで観ることはないが、私が子供の頃にはダーク・ダックスやボニー・ジャックス、デューク・エイセスといったグループがよく出演していた。彼らは玉川カルテットとぴんからトリオに駆逐された(冗談ですって)。

 この作品は最初、ピアノ伴奏と男声四重唱のための作品であったが(ダーク・ダックスが演奏するための作品だから当然だ)、のちにそのまま男声合唱で歌われるようになり、さらに混声合唱版も書かれ、オーケストラ伴奏の形に編曲された。
 
 この曲には誇張やフィクションがあると作曲者自身が書いているが、確かに“できすぎ君”が書いたような手記の内容も、ときにある(母親と兄弟にとても気を遣っている(でも、父親に関しては1回も出て来ない))。また、「リュック・サックの歌」や「山小屋の夜」で4人のソロが語る場面も、演出が過ぎていると感じる向きもあるだろう。(「リュック・サックの歌」の場面は、“僕”とヌーボー倉田の2人しかいないのだから、4人の人間で掛け合いをするのはおかしい。また、「山小屋の夜」の場面では、“僕”一人のはずだが声の掛け合いがある。はいはい、すいません、バカみたいなあげ足をとって)。
 とはいえ、実話に基づいているというリアル感、そして作曲者自身が平易に努めたというメロディーが、純粋に感動を呼び起こすことは間違いなく、私はあっけなく負けてしまうのである。
 
ルート  今回は大サービスで私がいくつかのサイトに載っていた地図から切り貼りして作った、現地の地図を掲載した。中房温泉、燕山荘、牛首など曲中の歌詞に出てくる地名が書かれている。見づらいが参考になればと思う。

 先日、大雪山系トムラウシで大きな遭難事故があった。たとえ夏山であっても、山を侮ってはいけないのだ。だいいち、まだ雪が残っているのだ。R.シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949)の「アルプス交響曲(Eine Alpensinfonie)」Op.64(1911-15)みたいに、途中で嵐にあっても無事下山できたというように、必ずしもうまくいくとは限らない(ただ、「アルプス交響曲」は本格的なアルプス登山を題材にしているのではない。日帰り登山である)。
 私も大学生のとき、札幌近郊の手稲山に“平和の滝”ルート(このルートはいくつも滝があり、ガレ場もあって自然を満喫できる)から登ってひどい目にあったことがある。この登山道を使って何度か山頂まで行ったことはあったが、そのときは10月。途中からみぞれ混じりの雨が降り出し、風も強まり、体が冷えてガタガタ震えながら上った。ササがざわめく中、山頂近くまで登り、まだひと気のないスキー場のリフト小屋に不法侵入し、そこで雨をしのぎなから雪玉みたいに冷えたおにぎりを歯を折らないように食べた。何の味もしなかった。
 雨が弱まり、登山道ではなく車道を歩いて下山することにした。ずぶ濡れでテクテクとみじめに、ドブに落ちたキタキツネみたいな格好で歩いた。この季節、幸い車はまったく走ってなく、他人にその格好を見られることはなかった。見た人がいたら、みじめというよりも、山中のアジトからの逃亡者と思ったかもしれない。
 でも、下りてからはバスに乗って、人目にさらされながら帰ったのだが……

 考えてみれば、季節的にクマが出てもおかしくなかった。
 あぁ、怖っ!