“変奏曲”の話である。キャバクラの店舗奥にある“変装局”(という部局名はついていないだろうけど)の話ではない。
 今日ご紹介する変奏曲は、ブリテン(Benjamin Britten 1913-1976)の「青少年のための管弦楽入門 ― ヘンリー・パーセルの主題による変奏曲とフーガ(The toung person's guide to the orchestra ― Variations and fugue on a theme of Henry Purcell)」Op.34(1946)である。

 ところで“変奏曲”って何なんだろう?
aa3d4e16.jpg  “変奏曲”の定義をきちんと本[E:book]で調べてみることにしよう。
 手元に「音楽形式」(音楽之友社)という本がある。著者は門馬直衛。初版は昭和24年4月25日発行。えらい昔だ。しかし私が持っているのはその「新版」である。新版が発行されたのは昭和55年6月30日。う~ん、それでも十分古い。発行というよりも発酵している感じだ。で、この本、現在入手困難中。

 門馬直衛という人物は学者ではなく評論家で、1897年生まれ1962年没である。この時代に西洋音楽の仕事に携わっていたなんてモ・ボだ(←モダン・ボーイのこと)。
 たぶん、30年ほど前にちょっとザワっと脳天を刺激する声質でNHK-FMのクラシック音楽番組でブイブイ解説をしていた、門馬直美のファザーじゃないかと思う。

 何を目的としていたのか今となってはまったく不明だが、私がこの本を買ったのが昭和57年。
 時代の流れには逆らえない。買ったときにはインクの香りがしていた(ような気がする)この本は、今ではすっかり黄ばみ、古い本に独特の変な香りもする。加齢臭だ。仏壇に置いてある過去帳にも似た臭いだ。

 このロングセラー本(?)を開いてみる。
 買ったときに読んだはずなのに、今回開いてみると(それにしても臭うな…)、あたかも初めて目にするような記述ばかりである。保管している間に、記述が変わったのであろうか?
 いや、20年以上も前に読んだとき、一文字も覚えらないくらい無感動だったか、私の内部で痴呆が進行しているかのどちらかだ。

 さてと、

 《変奏曲形式(英、Variation Form.独、Variationenform)は、変奏曲の形式である。》

 究極まで無駄を削ぎ落としたみごとな文章である。JR時刻表の凡例ページの方がはるかに人間味がある。しかも短い1センテンスのなかに、キーワードである“変奏曲”と“形式”を2度も織り込む熟練技を駆使している。

 しかしである。確かにそうかもしれないけど、もう少しものには言い方ってもんがあるんじゃないの?
 続き……

 《変奏曲(英、Variations.独、Variationen)というのは、短い句にこれを変化したものを幾つか続けたものである。この場合にいちばん初めに出て次々と変化されていく本(もと)の句は、主題で、これを変化したものは、変奏である。従って、変奏曲は、厳密には、主題と変奏というのが正しいのであって、現にそういっている作曲家も少なくない。》

 これでもかと折檻されているような気になってくる。
 直衛さまの言ってることは完璧である、多分。でも、なんか言い方が気になるのよね。

 そう思って、怖いもの見たさから他の部分を見てみる。
 “ソナタ形式”の章の出だし。

 《ソナタ形式は、古典派のソナタの重要な楽章に用いる形式である。》

 はぁ~。頬杖(ほおづえ)をつく私。
 こうなりゃ、いろいろ拾って楽しんじゃえ!もう頬杖はつかない私。

 《音楽は、人間の感情を音の集積連続によって表出したものである。ところが、その感情は、千差万別、多種多様である。例えば、紅いばらの花をみても、ただきれいだと思う人もあるし、うっとりとなる人もあり、言葉をかけたくなる人もあり、あの人がいた時はと考える人もある。それに、感情は、自由自在に刻々と微妙に変わってゆく。そういう感情をできるだけ音を通して表出したものが音楽である。であるから、音楽はきまりきった形式などには従っていられないではないか―こうもいえるわけである。それもたしかに一理ある。しかし、気まぐれな感情のままに音を秩序なくならべていったのでは、音楽とはならない。そういうものは、作った当人には音楽になるかもしれないが、聴く方の側にすると、何が何だかいっこうにわからないものである。音楽は、感情を表出するものに違いないが、理解され共感されるものでなければならない。これがためには、まず第一に、一般に理解できるように構成してあることが必要である。そして、理解されるには、それだけの方法に従うことが要件となる。その方法、それが形式である。》

 音楽に形式というものが必要であるということを、こんなにご丁寧に、考えに考え抜いて書いて下さるとは感謝せざるを得ない。
 また、ばらといえば“アカ”という発想が、いかにも世代を物語っている。しかも“赤”ではなく“紅”と書くところが心憎い。文中、本来なら漢字を使うべきところを、敢えてひらがな表記にこだわっているところも、細かなテクニックだ。
 でも、何かが違う。ボルトとナットのサイズが合っていないような、ニュッとした抵抗を感じる。

 《シューマンは、気分を重んじた作曲家として知られ、いろいろな幻想的な作品を残した。その中に、作品12となっているピアノ用の『幻想曲集』がある。全部で8つの小曲からできているもので、その8曲は、どれもみな幻想的であるが、第4曲は、恐らく、一番気まぐれものの一つで、その名も『気まぐれ』となっている。》

 “気まぐれもの”って言葉があるのだろうか?

 《音楽にあまり馴れていない人は、新しい曲に初めて接した時、何だかよくわからないとか取りつきにくいとか感じることが少くないようだが、それは、多くは、その曲の形式がわからないからである。形式さえわかれば、大抵の音楽は親しみやすくなる。少なくとも、わかったという感じが起こるものである。》

 そうでしょうか?
 音楽を耳にしたって形式がわかるとは限らないのでは?
 いや、相当な高率でわかりゃしないと私は思う。
 そんないけない私でも音楽に親しんできました。だいたい、「形式さえわかれば」っていうけど、その「さえ」が難しいんでしょ?だからこそ、あなたもこんな本を著してくださっているわけだと思うのですが……

 《ベートーヴェンの第5交響曲をその形式もわからないでぼんやり聴いて、やれ運命と闘争しているとか何とか勝手に想像するのは、結局、第5交響曲の音楽を聴いているのではなくて、無理にあるいはでたらめに勝手な想像をしているだけの話である。》

 で?
 ぼんやりするな、ということでせうか?
 ぼんやりと勝手な想像。ヤラシ……

 《古典派以前の音楽で私達に直接に、あるいは多くの関係があるのは、バロック音楽である。つまり、バッハやヘンデルなどで頂点に達した音楽である。そして、この本は、それも扱っている。しかし、さらにそれ以前の音楽、つまり、17世紀の初め以前のものは、特殊な研究や音楽史のようなもので調べてもらいたい。》

 この投げやりとも開き直りともいえる書き方!しかもバロック以前の音楽については「特殊な研究」ときた!すごいなぁ。

 《和声や対位法は、形式を研究するために勉強するようなものである。和声でくたびれてしまって、形式まで及ばないでやめてしまう人があるが、これでは、列車に乗るには乗ったものの、酔いで下車して引き返すようなもので、結局何にもならない。》

 酔った勢いで風俗店に入ったものの、酔っ払いすぎて何も出来ないで終わったようなものでしょうか?

 で、いつまでもかまってられないので、別な本で“変奏曲”を調べてみた。

 《変奏とは、主題や楽句などの音楽的素材にさまざまな方法で変化を加えることをいい、そのような変奏技法に全面的に依存している音楽形式を、変奏曲という。》

 よくわかんないけど、こっちの方がマトモな気がする。
 以上、“変奏曲”講座閉講。

 さて、パーセル(1659頃-95)については先日の記事で「メアリ女王のための葬送音楽」を紹介した。
 偉大な作曲家が極端に少ないイギリスにおいて、最初の偉大なるキム…、いや偉大な作曲家とされるパーセル。副題にあるように、そのパーセルが書いた主題をもとに、同じくイギリスの作曲家ブリテンが書いたのが「青少年のための管弦楽入門」である。
 曲名は、イギリス政府制作による音楽教育映画「オーケストラの楽器」のために作曲されたことからこのようにつけられている。
 確かにオーケストラで用いられる楽器を紹介している“入門曲”なのかもしれないが(だとしたら、もうちょっと明るい楽想を選べば良かったのに、と思ったりもする)、単なる機能音楽ではない。名曲である。だから私は、この曲を「パーセルの主題による変奏曲とフーガ」という名の方で呼びたい。

 映画の内容について私は知らないが、この作品が演奏される場合には、各区切りごとに音を延ばし、その間に指揮者が楽器の特徴などを解説するように指示されている(もともとの説明文はE.クロージャーによる)。ただ、純粋に音楽作品としてこの曲を味わうには、ナレーションなしの演奏の方が当然のごとく良い。
 最初にオーケストラ全体でパーセルの主題が演奏される。このパーセルの主題はA.ベーンの劇のために書いた付随音楽「アブデラザール(Abdelazar,or The Moor's revenge)」(1695)によるという。続いて、この主題は木管群→金管群→弦楽群→打楽器群で演奏され、再びオーケストラ全体で提示される。
 このあと、各楽器が個々に紹介されるにしたがって、主題が変奏されていく。

 各楽器による変奏が終わるとフーガになるが、ブリテン自身による主題(これもパーセルの主題に由来しているように思える)がピッコロで提示される。
 これは、フルート、オーボエというように加わってくる楽器とフーガを形成するが、ファゴットが加わるときにはフルートはパーセルの主題を奏する。つまり、ブリテンの書いた主題とパーセルの主題との二重フーガになる。最後に全オーケストラによって再びパーセルの主題が力強く演奏され、曲は終わる。

 ところで、私たちの目からすれば、イギリスという国はヨーロッパのなかでも代表的な国である。それなのに、(前にも書いたが)なぜこの国では大作曲家といえばパーセル、エルガー、そしてブリテンぐらいしか現れなかった音楽後進国になかったのだろうか?岡田暁生著「西洋音楽史」(中公新書)には次のように書かれている。

 《(西暦800年頃から発展しつつあった)「芸術音楽」とは、イタリア・フランス・ドイツを中心に発展してきた音楽なのである。ロシアなどはいうまでもなく、中央ヨーロッパ文化圏から外れるイギリスなども、芸術音楽の歴史全体の中では、あくまで辺境にとどまり続けた。この「アングロサクソンは西洋芸術音楽の主流でなかった」という点はとても大事で、実際イギリスからはなぜか「大作曲家」がほとんど現れなかったことは瞠目(どうもく)に値する。対するに現代の709e5d08.jpg ポピュラー音楽帝国がアングロサクソン主導であることも興味深い。「西洋音楽史」の実体とは「伊仏独芸術音楽史」に他ならないのである》

 油断して紅茶ばっかり飲んでいたせいなのかなぁ……

 私の愛聴盤はアンドルー・デイヴィスがBBC交響楽団を振ったCD。
 A.デイヴィスって一時期は日本でもけっこう紹介されていたけど、今の活動状況はどうなっているんだろう。トロント響時代は真面目な人って印象だったが、その後は髭なんか伸ばしちゃってワイルドっぽくしていたような気がする。

 そうそう、ご存知だと思いますがフーガのことを日本語では遁走曲(とんそうきょく)って言いますのです。遁走とは逃げ走ること。最初にこの名を考えついた人はすごい。