245cdcfb.jpg  全国的にお盆休みが終わったはずなのだが、昨日の朝の通勤電車はすいていた。まだお休みの人がけっこういるようだ。こんなことなら私も便乗すればよかった。
 昨日は都合のいいことに妻はパートの仕事があったし、次男は高校が始まった。長男はどうせ昼まで起きてこない。こんな素敵な日に、暦どおり仕事に来た私は勤勉すぎる。

 ところで、私がクラシック音楽を聴くのが好きだと初めて知った人の10人中12人が、「えっ、じゃあ何か楽器をやるのですか?」と聞き返してくる。世界が私に対して陰謀を企てているのではないかと思うほど画一的である。

 「いいえ、やりません」と私は答えるが、どうしてそう答えるかというと、それが真実だからである。

 でも、どうしてこんな変な質問をしてくるのだろう。
 なぜ私が、誰かに楽器をくれてやらねばならないのか?私は、カスタネットやタンバリンを恵まれない人たちに配って歩くヘンテコおじさんではない。だいたい恵まれない人がタンバリンをもらって喜ぶだろうか?
 さらに図に乗って、冬の焚き木にするからとピアノを要求されたらどうしろというのだ!音楽を聴くことが好きなのと、楽器をプレゼントするのとは別問題であることを、きちんと区別して欲しいものだ。

 次に必ずといっていいほど寄せられる質問は「誰が好きなのですか?」である。誰が、と問われてもこれに答えるのは簡単なことではない。
 「新千歳空港全日空14番カウンターのお姉さんです」と答えればいいのか、それとも将来のことを考え、「もちろん部長です」と答えればいいのか、あまりにも選択肢が広範囲にわたる質問だからだ。

 「いえいえ、おばかですね。作曲家のことです。誰が好きですか?」という質問に答えるのにも躊躇する。
 この質問の背景には、バッハやモーツァルト、ベートーヴェンやブラームスといった答えを期待しているのが明白である。しかし、私が愛好する作曲家はドイツどっぷりではない。「ショスコフィエノフリャードヴィッチスキーです」と、どうして答えることができようか!だいたいそんな作曲家は私の知り合いにはいない。

 正直に「マーラーとショスタコーヴィチです」と答えたとしても、クラシック音楽に全く興味のない人なら「それは美味しいですか?」と気のない返事をし(「余計なことを聞いてしまったぜ」という後悔の念が瞳に表れている場合が多い)、答えの内容が不正だということで会話を強制終了されてしまう。

 もっとタチが悪いのは、中途半端な知識を持っている相手の場合である。「ああ、あの暗めの音楽ですか……」と言うのだ。

 ウルトラにタチが悪いのは私に対して悪意を抱いている場合だ(たいていはそうだ)。「マニアックでついていけない」と言う。ついて来て欲しいなんて私は一言も言っていない。こんな質問者は、まるで通り魔のようだ。

 超ウルトラに最悪なのは、「おお、私もマーラーとショスタコーヴィチが好きです」という相手だったときだ。マーラーとショスタコーヴィチが好きな人間にまともな奴がいるケースはレアなのだ。そんな人とは付き合いたくない。

 以前、心理学系の公開セミナーに参加したことがあるが、自己紹介のときに「音楽を聴くのが好きだ」と答えたら、講師が「作曲家は誰が好きなんですか?」と、余計な食いつきをしてきた。
 「マーラーです」と答えた。研修3日目になって、参加者個々にコメントが出されたとき、私は「マーラーが好きだというところからしても、生い立ちに問題がある」と言われた。
 確かにマーラー自身がそううつ病であったことは確かだが、その音楽を好きだからといって、なぜ私の生い立ちに問題があるというのだろう。そもそも私の生い立ちに潜む問題とは何なのだろう?可愛すぎたとか優秀すぎたということだろうか?謎は深まるばかりである。

 この理屈で行けば、チャイコフスキーが好きな人はホモの可能性があるし、モーツァルトが好きならば社会常識に欠けるし、ワーグナーが好きなら女癖が悪いことになるし、ショパンが好きなら結核の可能性がある。
 この研修はうさん臭いものではなかったが、ちょっと洗脳がけるようなところはあった。おかげで純粋な私は研修終了時に感極まって、万歳をしてしまったほどだ(他に誰も「ご唱和」してくれなかったのが、いまでも心残りだ)。

 話が横にそれてしまった。というよりは本題が何かわからないまま進んでいる。とりあえずはこの話題はやめよう。

 さきほど「誰が好きか」という話になったが、デビューしたての頃の竹下景子はかわいかった。かわいい中にも色気があった。
 彼女が出ていた映画に「祭りの準備」というのがある。ほんのわずかだが、彼女のヌード・シーンもある(ただし、乳首のアップは別撮りだと思う)。
 この映画は、江藤潤が演じる田舎町の信金職員が、その街の閉鎖性が嫌で飛び出すというもの。映画の中のクソ暑い季節もアンニュイさをいっそう醸し出している。
 また、都会から来たというオルグ青年。竹下景子は彼が開く勉強会でその思想に感化されるのだが、その活動で“うたごえ”が利用されていたことも(歌を手段にした青年共産同盟組織拡大活動)この映画からよくわかる。

 独特の閉塞感が漂う映画である。