父の転勤で、私は小学校5年生の秋に浦河町から札幌市の西野に移り住んだ。
父の祖父母の家があり同居することになったのだが、2世帯住宅でもない家によく住めたものだ。家自体は決して狭くはなかったのだが、昔の作りなので妙に長い廊下や意味のなさない縁側など、生活空間として有効に利用できる面積は少なかった。
今はもうなくなってしまったが、札幌市営バスの“西野ターミナル”が一角にあった交差点、つまり山の手通りと西野二股へ向かう道路との交差点のそばに、カスタム・パルコという5階建てのビルがあった。あれは当時、人口急増で発展しつつあった西野という街のシンボルであった。オープンしたのは昭和47年のことだったと思う。
当時の西野はまだ田舎の面影を残していた。山の手通りは整備されて間もなかったし、通り沿いにはリンゴ園がいくつかあった。家がどんどん建てられてきており、学校はマンモス化しつつあった。
西野より山寄りの福井や平和には小学校がなく(まだ農村地帯だった)、そこからのバスで通学している児童もいた。現在西警察署が建っている場所は墓地だったし、遠くから家に来る人に道を教えるとしたら、手稲東町(いまの西町。手稲区が誕生し、まぎらましいということで町名が手稲東から西町に変わった)の“パチンコ甲子園”がいちばん分かりやすい目印であった。
カスタム・パルコの中核を成していたのはカー用品店(カスタム・マートという名であった)で、3階のワン・フロアを占めていたが、オートバックスやハローズのようなカー用品店がまだ一般的でなかった時代であり、しかもウチにはマイカーがなかったので、別世界のようなものを感じた。
1階には「電器のコーヨー」こと光洋無線が、電器店とレコード店を出店していた。私が中学生になったときに、親からラジカセを買ってもらったのがこの店だったし、先日書いた、ホルストの「惑星」のレコードを買ったのもここだった。(光洋無線は経営に行き詰まり、マツヤ電器に統合。そのマツヤ電気もさらにCADENだかに変った)。
しかし、私の記憶が正しければ、カスタム・パルコは私が高校を卒業する頃には客足が遠のき、テナントもだいぶ変わり、その数年後にはパチンコ店に変わることとなる。その数年前の昭和51年の西友西野店の開店が、実質のとどめであった。
なぜ、こんな“お年寄りの郷愁話”みたいなのを書いているのかというと、ドビュッシー(Claude Debussy 1862-1918)の交響組曲「春」(Suite symphonique "Printemps" 1886-87)を聴くと、没落しつつあったカスタム・パルコのなかに入っていたレコード店(コーヨーのレコード店が無くなったあとに3Fに出店した「ロビンソン」という名のレコード店)の“おじさん”を思い出すからである。
おじさんといってもまだ30歳そこそこだったと思うが、およそ音楽には無縁という感じの人だった。背は低めできゃしゃの体型、ショップ店員らしくない茶色のくたびれたスーツ、欠けた前歯、妙な訛り、何かに怯えているかのような落ち着かない視線……。
もしそこがレコードでなかったなら、彼は、茶色のくたびれたスーツを着た東北生まれの痩せたただの疲れたおじさん、にしか見えなかっただろう。 とても小さい店だったので、店員も彼一人。店長だった可能性もある。クラシック音楽のLPの店頭在庫などほとんど無し。高校3年の11月頃から、私はこの店で何回かLPを注文し始めたのだった。
私:「あの、マルティノンが指揮したドビュッシーの管弦楽曲集を注文したいのですが・・・。レーベルはEMIでレコードナンバーはAA6701です」
彼:「・・・・・・」(温暖な日の氷像状態。あるいは吹雪にさらされているお地蔵様モード)。
「あのぅ、取り寄せできませんか?」
「いえ、あの、マルチンの……何ですか?イー・エム・アイって?チョコレート?いや、やってみます。もう一度、へへっ、言ってくれますか?」
「じゃあ、紙に書きますね。EMIは東芝から出ているレーベルです」
その再発売のLP、ちゃんと入荷した。私のメモのおかげである(LPの初出のときの雑誌広告が上に掲載した写真である。1973年録音。オーケストラはフランス国立放送響)。
別なとき。
私:「先日メロディアから発売になった、ショスタコーヴィチのニュー・バビロンのLPを取り寄せてほしいのですが……。指揮はゲンナジー・ロジェストヴェンスキーです。けっこう話題になっているはずですが・・・。レコード番号はVICC5102です。2500円のはずです」(←明らかに少し意地悪が入った言い方に変化していることに注目)。
彼:「メロデア?ショスビッチ?ロスケ?ヴィシシ?」
私:(哀れむような、しかし乾いた笑顔で)「メモに書いてきましたからお渡ししますね」。
そのLPも、ちゃんと入荷した。
そのうち、彼は私に教えを乞うてきた。学習したのだ。
「いろいろなレコードを注文してくれるけど、どんなところから情報を手に入れているの?ちょっと勉強して売れ筋のものを店に並べたいんだけど」
恥ずかしそうに笑う彼の前歯は、欠けが大きくなっていた。慌てておにぎりにかぶりつき、なかの梅のタネでやられた。そんなところだろう。
「クラシック・レコードの専門雑で『レコード芸術』というのがあります。毎号、新らしいレコードの推薦盤が紹介されているので、まずはそういったところから並べてみてはどうでしょう。あっ、来月号は『レコード・アカデミー賞』の受賞盤も紹介されますよ」
1ヶ月ほどあと。
店頭にはレコード・アカデミー賞受賞盤が並んでいた。なかなか商売熱心、いや勉強熱心である。忠実である。良い人なのかも知れない。
白い紙に黒いマジックで「レコード・アカデミー賞受賞レコォド」となぐり書きの、きったねぇ字で書かれたPOP(というか厚紙)も張ってあった。
だが私にも考えが不足していた。こんな小さな店に受賞LPを買いにくる客などいるわけがないのだ(はなから置いてあるはずがないと思っているから)。さらに致命的なのは、そもそもビル自体に客が入っていない。そのうちクラッシクレコードを買い求めに来る人は絶望的に少数だ。
それに輪をかけているのが、あのPOPだ。田舎町の道端に「トウキミあります」と書いて立ててある看板の方が手間がかかっている。 たまたまそのあと1ヶ月ほど店を訪れる機会がなかったが、私にもアドバイスした責任がある。アカデミー賞受賞盤の中から1枚は買ってあげなければならないと思い行ってみた。風景が変わっていた。店は撤退し、跡形もなかった。
そのマルティノン指揮のLPに入っていたのが交響組曲「春」である。この曲を聴くとあの「おじさん」を思い出す。彼は何者だったのだろう。
このような美しく神秘的な響きをもつ音楽が、私にとっては“ロビンソン”というレコード店にしては怪しげな名の店に、借りてきた間に合わせの留守番役のような歯っ欠けおやじの思い出と結びついているのは不幸である。私が知る限りでは、“ロビンソン”という名のレコード店は他には聞いたことがなかったので、あの店舗1店だけの経営で、あのおやじが社長だった可能性もある。あるいはすべてが幻影だったのか?(なお、西野には当時「ぴぴ」というレコード店もあった。これも相当間抜けな名前だ)。
この曲は当初、合唱と管弦楽のために作曲され、ピアノ4手による形で1904年に楽譜が出版された。しかし、管弦楽スコアが印刷所で焼失したため、1913年にドビュッシーの指示によりH.ビュッセル(Henri Busser 1872-1973)が1904年版を基にオーケストラ編曲した(ビュッセルは'07年12月28日のブログで書いた「小組曲」の編曲者と同じである)。
曲は2つの楽章から成るが、全編にわたり感じられるのは「霞がかった春」のイメージである。ドビュッシーはボッティチェリの絵画「春」にインスピレーションを得て作曲したといい、「苦しげに誕生し、次第に花咲き歓喜に達する自然の姿を描こうとした」と語っている。
ゆらゆらとした陰影のある音の流れが耳に心地よい曲で、この5年後に「牧神の午後への前奏曲」で彼が確立した印象主義の芽がすでに出はじめているようにも感じる。
それにしても、作曲者によって「春」の表現もずい分といろいろとあるものだ。
掲載した写真のCDは昔のもので、現行盤の下記のものとデザインは異なる。
あの西野のシンボル、カスタム・パルコがオープンした日、私は近くの砂利道の水たまりでカメを拾った。家に持ち帰って育てた。半年後、カメは恩返しもせずに死んだ。
あのカメ、どこから逃げてきたのだろう???
昨年11月9日の「新」の方の記事とちゃんと書けばよかったですね。すいません。