340fefb0.jpg  ドイツに行っている間、あるいは日本に帰って来てから、ふとしたことで何度も頭の中に浮かんでくる曲がいくつかあった。
 そのうちの1曲、マーラー(Gustav Mahler 1860-1911)の交響曲第4番(1892,'99-1901,改訂1901-10)。この曲を取り上げるのは'07年12月16日'08年5月24日に続き、しつこく3度目。

 私の青春時代には「大いなる喜びへの賛歌(Ode to heavenly joy)」という題名で呼ばれていたものである。いつの間にか「大いなる喜び」はどこかに消えてしまって暗くなった、わけではないが、いまは純粋に交響曲第4番ト長調と表記されることが多い。というのも、マーラー自身がこういうタイトルをつけたわけではないから、これは賢い判断。かつて“たすき”にそう書かれていたのは、標題がつけば少しはレコードの売り上げが伸びるという業界の涙ぐましい策か?

 マーラーの交響曲は第1番から第3番へと、とち狂ったかのように規模が大きくなっていったが(編成も曲の長さも)、その反動であるかのように演奏時間も短く(といっても小1時間はある)編成も常識的(?)になっている。金管ではトロンボーンとテューバを欠いているくらいだ。マーラーらしくない……

 第4交響曲を作曲していた間にマーラーはユダヤ教からカトリック教へと改宗している。1897年春のことで、今よりも良い歌劇場のポストを手に入れるためだった。DUDAのために神を乗り換えたわけだ。

 マーラーはオーストリアの作曲家だが、生まれたカリシュトという村は当時はボヘミア(現在のチェコ領)だった。オーストリアという国そのものがまだハプスブルク帝国だった。
 マーラーはユダヤ人の家庭に生まれたが、ご存知のとおりユダヤ人は昔から迫害されてきた。

 その理由の1つは、主流となっていたキリスト教からのユダヤ教弾圧である。キリスト教はユダヤ教から生まれた宗教だが(当時の新興宗教であったわけだ)、この2つの宗教はまったく相容れないものがある。
 ユダヤ教の神、ヤハヴェは自分の姿を何ものにも例えてはならないという形のない神である。偶像を作ることは許されない。この神はどんな姿にも例えられない唯一絶対の神なのだ。ところがキリスト教は、イエスという実在する目に見えるものを神としている。さらにその神というのが“人の子”なのである。人間であるイエスが“神の子”であるということは、ユダヤ教では考えられないこと。逆にキリスト教徒からすれば、ユダヤ教徒は自分たちの神・イエスを十字架に架け、殺した人たちなのだ。
 しかしユダヤ人=ユダヤ教徒が迫害されてきた理由はそれだけではない。

f0e46ad2.jpg  歴史をみるとユダヤ人はアッシリアに攻められ一度は滅亡し、あるいはバビロニアに攻められやはり滅亡する。バビロニアに捕囚されていた人たちが再びユダヤの国を作ろうとしたものの、今度はローマ帝国に滅亡される。ところが、その後はイスラエルという国が作られた。現在では周囲のアラブ諸国とのトラブルが絶えないように、ユダヤ人は滅亡どころか、自分たちの国、イスラエルという国を築き上げたのだった。その「不滅の不気味さ」がユダヤ人を怖れ迫害することにつながっているのである。ベルリンのあの墓(慰霊碑)の写真をもう一度載せておきますね。じっと見ていると……さて、いくつあるでしょう?

 話をマーラーに戻すと、彼が生まれた1860年、ユダヤ人に対し任意居住権が認められた。これによってマーラー家は、やはりボヘミアのイーグラウという町に移り住む。マーラーが生後3ヶ月のことである。
 イーグラウはカリシュトに比べると大きな町で、もともと酒屋を営んでいたマーラーの父はここで旅館業も始め、経済的には成功を収めた。そのイーグラウには軍隊の駐屯地があり、幼いマーラーはそこから聞こえてくる音楽、おそらくは軍隊ラッパに親しんだ。その軍隊ラッパの思い出が彼の交響曲でしばしば顔を出すのはご承知のとおりである。
 彼が最初に手にした楽器はアコーディオンで、3才か4才のときのことと伝えられているが、一度軍楽隊の行列のあとについてアコーディオンを弾いて歩いたこともあるという。

 マーラーの第4交響曲は、いわゆる“古典的”な交響曲を回顧すると同時に、それを皮肉るような仕掛けがあるように思える。
 マーラーの回想を書いたバウアー=レヒナーによれば、冒頭から登場する鈴の響きは「道化の帽子についた鈴」であるとマーラーが語ったという。また、音楽批評家のアドルノによれば、この鈴は「君たちがこれから聴くものは、すべて本物ではないよ」と語っているという。
 そう考えると、鈴の音は「“古典的な交響曲”に聴こえるけど、本当は違うのだ」というパロディー音楽であることををほのめかしているのではないだろうか?(このあたりは村井翔「マーラー」(音楽之友社)が参考になる)
 そして、この曲にはユダヤ教からカトリック教に打算的な理由で改宗したマーラーの歪んだ心情が反映されているようにも思える。結果的に、改宗したことは就職活動に大いに役立ったとは言えなかったようだし、結局はユダヤ教もカトリック教も信仰しないこととなり、マーラーは人生の解答を見出すことができなくなった。この人生の意味についての悩みや疑問と、彼の躁鬱病とは無関係ではないだろう。信仰という面で、マーラーとブルックナーは対照的だ。

 第4交響曲は終楽章である第4楽章に声楽が用いられ、その歌詞は「子供の不思議な角笛」によっている。このため、同じく「子供の不思議な角笛」と関連を持つ第2番、第3番とともに「角笛交響曲」として括られることがあるが、第3番とは密接な関係にあるものの、第2番との関連はないように思われる。逆に、葬送行進曲風ファンファーレからは第5番とのつながりを感じさせる。
 終楽章の歌詞は「天上の生活―私たちは天上の歓喜をうける」である。この楽章が先に作曲され、前の3つの楽章はそのあとに書かれている。はじめに終楽章ありきだったのである。また「天上の生活」は、当初は第3交響曲の終楽章(第7楽章)に用いようと構想されたが見送られた。

 CDは'07年12月16日の記事でも紹介したケーゲル指揮ライプツィヒ放送響のものを私はやはりお薦めしたい。1976年から78年にかけての録音。LPで出たときに、“レコード芸術”誌の中に広告が載っていて、そのジャケットデザインが気に入って買ったのだが、演奏もいい。ケーゲルという指揮者を聴いたのは、そのLP(つまりこの演奏)が初めてであった。オリジナルのLPジャケットデザインは掲載したCD写真にも使われている右下の囲みのものである。そして、このLPは先日書いた“ロビンソン”で注文して取り寄せてもらった。
 ソプラノ独唱はチェレスティーナ・カサピエトラ。ケーゲルの夫人だった人である。

 それにしても、なぜ急にマーラーの4番が頭に浮かんでは消えるのか不思議である。まっ、ヨーロッパつながりってことにしておくか???
 それとも旧東ドイツ-ケーゲルということが私を駆り立てているのか???
 やだわぁ~