今日はラヴェル(Maurice Ravel 1875-1937)を取り上げてみる。なんか突然もよおしたのだ、ラヴェルに。
曲は管弦楽による組曲「クープランの墓(Le tombeau de Couperin)」。
その前に、昨日のブログで著書を取り上げた“「1Q84」解体本”の大塚英志氏について、私は知らないと書いたが、そのあとWikipediaで調べたら「あぁ、この人か」とちょっとは知っていた。連続殺害事件の裁判の話をどこかで読んだことがあったのだ。知らんなんて書いてすまなかったと思う。大塚氏にとってはどーでもいいことだろうけど。
ドビュッシー(Claude Debussy 1862-1918)の影響を受け、彼と並んで“印象主義音楽”を確立したのがラヴェルであった。しかし、ラヴェルの音楽はドビュッシーと比較すると「より理知的で古典的な明解さを持つのが特色である」(井上和夫編著:クラシック音楽作品名辞典)のだ。
意味が解るような解らないような、難しいような難しくないような記述だが、とにかく私個人はドビュッシーよりもラヴェルの方が好きである。何をもってして「とにかく」なのか曖昧で申し訳ないが……
ドビュッシーと、彼よりも13年あとの1875年に生まれたラヴェル。
この2人の経歴は重なり合っているし共通点もあるが、実のところは相違点の方が多い。ドビュッシーは感覚に訴える作曲家であったのに対し、ラヴェルは精密機械のような作曲家であった。
感覚と機械。
ほら、アナログとデジタルぐらいに違う。
ストラヴィンスキー(Igor Stravinsky 1882-1971)はラヴェルのことを「スイスの時計職人[E:watch]」と呼んだほどだ(ラヴェルの父親はスイス人である)。
H.C.ショーンバーグは次のように書いている(「大作曲家の生涯」:共同通信社)
《基本的にラヴェルの美学は、ドビュッシーの美学とは異なった前提に立っていた。ラヴェルは、より精密で、より伝統的な形式主義者であり、ソナタ形式や古典派、バロック音楽をモデルとした形式を用いた。彼の音楽は個性的とはいえ、強い客観性を備えていた。ラヴェルの音楽にはドビュッシーの音楽の物憂げな感性はなく、ドビュッシーを水彩画とすれば、ラヴェルはエッチングであった。ドビュッシーの形式には色彩と感触から発展させたものが多く、既成の規則に従っていないのに対し、ラヴェルは色彩と感触よりは、主題から出発した。彼はドビュッシーよりもはるかに先輩(作曲家)の手法を参考にした……》
20世紀の初頭、多くの批評家が「ラヴェルはドビュッシーを模倣した」と評した。ラヴェルはこの非難を深く恨んだという。そりゃそうだろうな……
ドビュッシーとラヴェルの関係については、実はあまり多くのことはわかっていない。
H.C.ショーンバーグによると、知られている限りでは2人は一通の手紙も交わしていない。
例えば、ラヴェルが書いた「弦楽四重奏曲」(ヘ長調。1902-03/'04初演)に対し、ドビュッシーが「音楽の神の名において、そして私の名において“一音符たりとも変えるな”と言いたい」と手紙を書き送ったと言われているが、その手紙の原本を手にした者は誰もいないという。
7歳でピアノを弾き始めたラヴェルは、1889年にパリ音楽院に入学したが、いわゆる神童ではなく、この音楽院に16年も在籍した。
彼の作品が初めて演奏されたのは1898年のことで、1901年には彼が印象主義の手法を確立した最初の作品である「水の戯れ(Jeux d'eaux)」を作曲、翌年これを発表している。「水の戯れ」は移り変わる噴水の様子を描いたとされるピアノ曲である。
このとき、ドビュッシーは重要なピアノ曲をまだ1曲も作っておらず、後年ラヴェルは「自分の方が先輩であり、模倣という問題ならドビュッシーが自分を模倣したのだ」と主張し続けた。つまり、「最初にドビュッシーが作りあげ、ラヴェルはそれを真似た」と言われていた「印象主義の音楽」というのは、事実と逆に成り立ったというわけだ。
ラヴェルの名声が急速に高まるにつれ、ドビュッシーは攻撃にでた。ドビュッシーは自分以外のほとんどすべての音楽について批判的だった。ラヴェルは栄えある敵とみなされるようになり、悪口を言われるようになった。しかし、ラヴェルの方は終生ドビュッシーに賛辞を送った。その賛辞のなかにはトゲが含まれることがあったが……
今日取り上げるオーケストラ版の「クープランの墓」の原曲は、1914年から17年にかけて作曲されたピアノ曲。原曲は6つの曲から成るが、1919年に管弦楽化するときに4曲だけが採用され、曲順も一部変更されている。
題名にあるように、フランスのバロック期の大作曲家・クープラン(Francois Couperin 1668-1733)の様式を借りた擬古典主義の曲。各曲ごとに第1次世界大戦で没した若い人への献辞がある。
また曲名の“Le tombeau de Couperin”は「クープランの墓」と邦訳され、それが定着しているが、トンボーというのは死者を追悼する曲のことで、墓と訳すのは正しくない。17世紀頃のフランスでは、過去の偉大な芸術家や文人を偲んだ作品に対しトンボーとつける習慣があったのである。まっ、いまさらどう騒いでもしかたのない誤訳である。
第1曲「前奏曲」。16分の12拍子という珍しいリズム。ジャック・シャルロー中尉に捧げられている。オーボエが活躍する。
第2曲「フォルラーヌ」。フォルラーヌとは、もともとはイタリアのフリアウル地方の郷土舞曲で、18世紀にヨーロッパ全域に伝わり流行した。ガブリエル・ドゥリュック中尉に捧げられている。
第3曲「メヌエット」。ジャン・ドレフュスに捧げられている。舞曲というよりも何かを懐かしむような音楽。
第4曲「リゴードン」。ピエール&パスカルのゴーダン兄弟に捧げられている。リゴードンは、18世紀にヨーロッパ全土に流行した舞曲。活き活きした音楽
CDは、アンドレ・クリュイタンス指揮パリ音楽院管弦楽団による演奏をご紹介(EMI)。1961年から62年にかけての録音で、まあ音質は苦しくなっているが、クリュイタンスのラヴェルはさりげないしゃれっ気があって上品だ。私のイメージでは、ラヴェルはクリュイタンス、ドビュッシーはマルティノンっている図式が、なぜかある。マルティノンのラヴェルももちろん素敵だけど……
上に載せた写真は輸入盤2枚組で、クリュイタンスによるラヴェルの管弦楽作品集。
ラヴェルの人生って、華々しさにはあまり縁がなく、苦悩に満ちていたように思える[E:despair]。
そう思うと、“意地悪ドビュッシー”よりも、私はラヴェルに惹かれてしまうのである(自分が意地悪だから反対のものに惹かれる、というのでは決してないです)。