21e8ed86.jpg  昨日の朝、消極的に会社に行くために出がけに靴を履こうとしたら、ボキッと靴べらが折れた。真っ二つだ。一歩間違えたら靴べらではなく、私の体内のどこかを骨折したかもしれない。
 人によっては「これは実に良くないことが起こる予兆だ。仕事なんて行くべきではない」と、一日中ベッドの中でおびえながら過ごすかも知れない。

 でも、私はあまり験(げん)を担ぐことはない。
 ただ、それでも子供たち(もちろん自分の、である)が小さいときには聴くのが憚(はば)れた曲がいくつかある。
 その最高位にあったのが、マーラー(Gustav Mahler 1860-1911)の歌曲「亡き子をしのぶ歌(Kindertotenlieder)」(1901-04)である。
 歌詞はリュッケルト(Johann Michael Friedrich Ruckert 1788-1866)の同名の詩集による。
 リュッケルトは2人の娘を相次いで亡くしたのだったが、1833年から翌年にかけて、その不幸と悲しみを425の詩に綴った。マーラーはこのうちの5編を選んで連作歌曲とした。

 この作品は以下の5曲から成る。
 1. いま太陽は輝き昇る
   Nun will die Sonn' so hell aufgeh'n!
 2. なぜそんなに暗い眼差しか,今にしてよくわかる
   Nun seh' ich wohl,warum so dunkle Flammen
 3. お前のお母さんが戸口から入ってくるとき
   Wenn dein Mutterlein tritt zur Tur herein
 4. ふと私は思う,あの子たちはちょっと出かけただけなのだと
   Oft denk' ich,sie sind nur ausgegangen!
 5. こんな嵐に
   In diesem Wetter!

 なお、マーラーはこの曲のスコアに「これら5つの歌曲は切り離し得ないひとつのものとして意図されているので、演奏の際には、5つの歌曲のうちのどの曲が終わった時でも、拍手やいかなる種類の妨げにも中断されることなく演奏されねばならない」と、わがままな注意を書き記している。自分は3年もかけて作曲したくせに……

 マーラーは1902年にアルマ・シントラーと結婚。同年のうちに長女マリア・アンナが誕生している(やるぅ~っ!)。
 そのマリア・アンナは1907年に猩紅熱とジフテリアの合併症で5歳で亡くなった。
 つまり歌曲「亡き子をしのぶ歌」は、マーラーが独身のうちから書き始められており(3曲は結婚前に書かれた)、不幸にも長女のマリア・アンナが亡くなる2年前には、この5曲から成る歌曲が初演されている。
 これを予言的とみるのはある意味劇的な話だし、マーラーは「自分の子供が死んだと想定して書いた」と手紙に書いているそうだが、それはあくまで創造活動における気持ちの持ち方であって、神秘的にとらえるべきではないだろう。

 ただ、たとえそうであっても、この曲が持つ“父親が内にためこんだ”切なさは聴く者の心を打つ。
 私の子供はすでに小児科に出入り禁止となるまで大きくなった。それでも、私にはこの曲をめったに聴かない習慣がついてしまった。

 フィルハーモニア版スコア(音楽之友社。現在入手困難)の前書きに、リヒャルト・シュペヒトは次のように書いている。

 《「亡き子をしのぶ歌」にいたってひとつの展開がみられる。すなわちそれまでの客観的な手法による表現から主観的な手法による表現への展開である。いいかえれば兵士の歌や「子供の不思議な角笛」の明るいあるいは物悲しい伝説などから、リュッケルトの歌の感動的な告白を越えて、いいあらわしようのないほど魂をゆさぶり、痛痛しくも深い感動を与える「亡き子をしのぶ歌」への展開である》

 一般的日本語とは言い難い訳ではあるが、痛々しい感動をもたらしてくれることには違いない。

 第1楽章は、昨夜の不幸な出来事など何もなかったかのように昇る太陽を見ているやるせなさ歌う。
 第2楽章は子供の瞳にこの世を去ることを告げていた光に気づかなかったことを、第3楽章は母親が戸口から入ってくるときには後ろからくっついて入ってきていた娘の姿がないことを嘆く。
 第4楽章は、子供たちの姿がないのはちょっと散歩に出かけているだけだと思う気持ち(村上春樹の「1973年のピンボール」のなかの双子の場面を読んだとき、私はこの曲を思い出してしまった)。
 第5楽章は、こんな嵐の日に子供たちを外出させたら病気になって死んでしまうかも知れないという心配が、いまでは必要なくなったむなしさを歌う。この楽章の後半の美しさ!

 CDは小松英典(Br)が歌ったナクソス盤を紹介しておく(1995年録音)。
 その声は、子供を失った若い父親の、感情を抑制した叫びのようである。