Long,long ago.中学生時代の話。

 私と同じ学年には、学校中からピアノがとってもお上手という不動の地位を占めていた女子が2人いた。この2人は、合唱コンクールなどでは当然の決まりのごとく、ピアノ奏者を務めていた。

 しかし、その2人とは別に中学3年生のときに同じクラスになった又靄さん(仮名)という子がいた。ちょっとかわった子だった。いや、ちょっとではなく、全般的に少なからず変わっていた。
 ある面では必要以上に生真面目、一種の偏向的なカタブツで、言葉はアイスキューブのように温かみがない上に固く、顔はやや擬古典主義風で、プロポーションはダックスフンドの系統に属すもので、総体的に洗練されていないとの印象はぬぐえず、それは見事に「ま・た・も・や」の名にふさわしい感じがした。
 いま、読者の皆さんが彼女にどのようなイメージを抱いているかかわからないが、たぶん大きなブレはないと思う。

 その又靄さんはピアノを習っていた。一度もピアノを弾いたところや拭いたところを見たことがないまま終わったので腕前はわからない。本人はけっこう弾けるようなことを言っていたが、彼女がピアノを習っているということは犬が寿司を握るというぐらい、アンマッチなイメージがあった。
 腕前どころか、本人が言っているだけだから、本当にピアノを弾けたのかどうかの確証もない。こういう言い方をしては悪いと思うが、証拠はないのだ。
 けど、あのきつい目で宣言されるとウソとも思えなかった。あのちょっと吊り上った目はどこかしら呪術的な印象を与えた。

 彼女は私に言った。
 「やっぱりショパンよねぇ。ショパンに限るわ」
 彼女が言うと「アンパンやメロンパンよりもショパンの方が美味しいわ」というふうに聞こえた。
 さらに「私はショパンのファンクラブをつくるわ」などとボソッと決意をつぶやいていた。その言葉には、ショパンが故人だという真実を受け入れはしない、というような響きがあった。

 彼女は勉強用の大学ノートの裏表紙に早苗ちゃん、ではなくショパンの名を書き連ねていた。写経のように「Chopin,Chopin,Chopin」と。
 当時、私は「こいつ、バッカじゃなかろうか。大好きだっていうわりに、こんな綴りの間違いをして」と思ったが、指摘しなくてよかった。これは正しい綴りだった。
 チョピンと書いて、ショパンだったのだ。危ない、危ない。ああいう視野狭窄型の女性に恨まれると大変なことになってしまう。

 その又靄さん、腰を悪くして椅子に座れないと、かかしみたいなことを言っていたことがあった。学校でも一日中立っていた。
 「起立、礼、着席!」
 でも、又靄さんは立ったまま。
 何も知らない教師の一瞬ギョッとした表情。まだのんびりした時代だったからいいが、これが5年あとだったら、校内暴力開始の宣戦布告と見なされたことだろう。

 でも、又靄さんって本当にピアノが弾けたのだろうか?合唱コンクールでも、いつもアルト軍団の中で歌っていた……。しかもけだるそうに。
 どうみても音楽を愛する乙女には見えなかった。
 それとも、あのときすでに乙女ではなかったのだろうか?
 ないない……

 中学のときにピアノの名手と呼ばれていた2人は貴藤さん(仮名)と峰崎さん(仮名)といった。
 貴藤さんは小学校のときに私と同じクラスだった。中学に入るとなぜか急に男の子にもて始めた。確かにかわいい子ではあったがその事態急変の理由はわからない。でも、私も流行に後れまいと彼女を好きになり、ふられた。

 峰崎さんとは話をした記憶がない。さらにある出来事によって、私は彼女がどんな子か知らないまま、友人にはなり得ないと判断した。何か恥部を知られたかのような気になったのだ。
 そのある出来事というのは、こういうことだ。

 私の母と彼女の母がちょっとした知り合いになった。で、母が峰崎さんの家にお呼ばれしたことが一度あり、私がそれに同行した。峰崎嬢の父親がクラシック好きでレコードをたくさん持っている。峰崎さんのお母さんが息子さん(私のこと)を連れて来ては、と言ってくれたらしい。

 行くと、そこそこのステレオ装置があり、LPもそこそこあった。
 ただ、その雰囲気は音楽愛好家のものというよりは、中途半端なブルジョア志向であるように思えた。私の貧乏人としての勘がそう働いたのだ。

 峰崎マダムは私に「作曲家は誰が好きなの?」と尋ねた。
 「モーツァルトです」。
 「あら、まぁ。残念ねぇ。ウチではモーツァルトはあまり聴かないから、レコードもあまりないのよ。他に好きな作曲家は誰?」
 このとき、少年は「メンデルスゾーン」と答えようとしたのだが、緊張感と折からの尿意で口が滑ってしまった。
 「奥さん、あなたです」
 いや、もとい。これは冗談。
 「モーツァルトっ」
 何をとち狂ったのか、私はまた同じ名前を言ってしまったのだ。
 「まぁ、まだ作曲家もよく知らないのね……」
 彼女はオウムを相手にしているかのように、私にそう言った。

 いまの私だったら、「いやですねぇ奥さん、違いますよ。いま言ったのはクサヴァー・モーツァルト、つまりヴォルフガングの息子の方ですよ」と、葉巻片手に嘘八百を並べたてられるのだが、そのときの私は若すぎた。

 この小ばかにするような言い方に(明らかに被害妄想なのだが)、私は「あの娘も、母親同様に底意地が悪いに決まっている」と、結論づけた。
 その場に娘はいなかった。でも、あのマダムは「ねえ、あの子ったら何にも知らないのよ」って告げ口するに決まってる。
 こうして、私は峰崎嬢とはついぞ話をすることがなかった。
 でも、いま思うに、顔立ちは貴藤さんより峰崎さんの方が美しかったと思う。上品だったし。
 あの当時、おそらくはピアニストを目指していた2人はショパンの何かを弾けたのだろうか?

 どうもショパンの曲(有名曲)というと、TV-CMと結びついてしまう。
 中村紘子が出てきてショパンを弾きながら、カレーを食べる。そんな曲芸シーンを連想してしまうのだ(中村紘子といえばショパン弾きのイメージが強い)。
 その周りでは紳士淑女がカレー皿を手に持って微笑んでいる。ピアノを囲んでカレーライスを立ち食いするという異様なシチュエーションだ。ピアノの中に、カレーの皿をひっくり返したら中村紘子は半狂乱になるんだろうな、と妄想は尽きない。

 ところで中村紘子、その昔、北海道の田舎町でリサイタルを開いたとき、客席で子供がぐずり続けているのに腹をたてて、そのまま演奏会をキャンセルしたそうだ。気持ちはわかるが、ややとんでもないヤツだ。

df3c813c.jpg  貴藤さんはその後、某楽器メーカーのピアノ教室の講師になったという。峰崎さんのことはまったくわからない。きっと“よいとこのご夫人”になったんじゃないかと思う。
 そう考えると、ピアニストになるのってすっごい大変なことだということがあらためてわかる。同じピアニストでも、土屋賢二氏が言うような「弱い人」になら、私も既になっているけど……

 そうそう、又靄さんの話だった。
 すでにすっかり忘れていた。
 そんな彼女のために、ワルツ集を……

 ショパン(Frederic Chopin 1810-49)は、以下のように全部で19曲の「ワルツ」を書いている。
 第1番変ホ長調Op.18「華麗なる大円舞曲(Grande vaise brillante)」(1831)
 第2番変イ長調Op.34-1「華麗なる円舞曲(Valse brillante)」(1835)
 第3番イ短調Op.34-2(1831)
 第4番ヘ長調Op.34-3「華麗なる円舞曲(Valse brillante)」(1838)
 第5番変イ長調Op.42(1840)
 第6番変ニ長調Op.64-1「小犬(Petiet chien)」(1846⇔47)
 第7番嬰ハ短調Op.64-2(1846⇔47)
 第8番変イ長調Op.64-3(1846⇔47)
 第9番変イ長調Op.69-1「別れ(L'adieu)」(1835)
 第10番ロ短調Op.69-2(1829)
 第11番変ト長調Op.70-1(1835?)
 第12番ヘ短調Op.70-2(1843)
 第13番変ニ長調Op.70-3(1829)
 第14番ホ短調(1830)
 第15番ホ長調(1829)
 第16番変イ長調(1827)
 第17番変ホ長調(1840)
 第18番変ホ長調(1829⇔30)
 第19番イ短調(1843?)

 このように、作品のナンバリングは作曲年の順にはなっていない。また、第14番から第19番までは作品番号がついていない。
 これら19曲のほかに番号なしのワルツとして、1952年に発見された1848年作曲のロ長調の作品もある(作品番号もなし)。

 又靄さんはどうしているのだろう。
 いまでも腰痛のために案山子(かかし)のようなことを時々しているのだろうか?
 別に会ってみたいとか全然思わないが、なんとも不思議な人だった。
 
 ということで、彼女のことはどうでもよく、カツァリス盤でも……
 第1番から第19番までの、いわゆる全曲盤。1980年のライヴ録音である。