モーツァルトというのは私にとって不思議な作曲家だ。

 前にもちらっと書いたがその上さらにしつこく書くと、私がクラシックを聴くようになったのは、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart  1756-91)の「3つのピアノ協奏曲K.107」(1765。J.C.バッハのクラヴィア・ソナタOp.5からの編曲)のなかの、第1番の第1楽章がきっかけだった(その演奏の独奏にはピアノではなくチェンバロが使われていた)。
 その後、モーツァルトを中心に聴いていったのだが、ほどなくして、言葉は悪いが飽きてしまった。モーツァルトの魅力は、そのころの私にはまだまだわかり得ないものがあったのだろう。刺激も少なすぎた(そのひとつの要因としては、当時の演奏スタイルもあったのだと思う)。そうして、私はモーツァルトの作品をあまり聴かなくなっていった。

 しかし、30歳後半になるとモーツァルトが聴きたいと思うことが多くなった。
 これは自分でも意外だった。
 若い頃は、「モーツァルトを好む人には年寄りが多い」と勝手に思い込んでいたが、仮に私の仮説がある程度正しいとすると、私は年寄りになってしまったのよ~ん、である。
 ついでに、ハイドンが好きになったら、体の半分は棺おけに入っているのよ~ん、かもしれない←うそです。ハイドン・ファンの皆さま、すいません。

 こじつけるなら、モーツァルトでクラシック音楽に魅せられ、鮭のように長い年月を経てカンバックした、ということだ。ちなみに今年は鮭が不漁らしい。

 確かに自分は歳をとった。
 疲れやすい、朝早くに目が覚める、毎日食事は焼肉でもいいと思えなくなった、高級牛肉より安い赤みの肉が好きになった、トントロを食べると胸焼けで苦しむハメになる、ビタミン剤を飲んでもまったく元気にならない、尿切れが悪くなった、鼻毛に白髪が混じりかけている、自分の年齢を即座に思い出せないことがある、など、明らかに私のクエン酸回路の働きは鈍くなっている。

 私がいちばん恐れるのは耳が遠くなることだ。
 妻の小言を聞かなくて済むというメリットがある反面、音楽を聴けなくなるというデメリットがある。困ったものだ。

 モーツァルトを愛した作曲家の一人に(この表現には常識の範囲を逸脱した深い意味はない)チャイコフスキー(Peter Ilyich Tchaikovsky 1840-93)がいる。
5003f497.jpg  そんなモーツァルトへの想いをこめた作品が、組曲第4番ト長調Op.61「モーツァルティアーナ(Mozartiana)」(1887)である。  

 チャイコフスキーは、この曲のスコアに次のように記しているという。

 《モーツァルトの多数のすぐれた小規模曲は、どういうわけか一般のみならず大部分の音楽家にも、ほとんど知られていない。この『モーツァルティアーナ』と名づけた編曲の組曲は、簡素な形式ながらも十分得がたい美しさをもったこれらの珠玉のような作品が、より頻繁に演奏されるような糸口を与えることを、期待するものである》

 曲は4曲から構成されている。

 第1曲は「ジグ」で、原曲は「小さなジーグ(Eine kleine Gigue)」K.574という、1789年に作曲されたピアノ小品。ジーグとは、もともとは16世紀イギリスの舞曲。

 第2曲は「メヌエット」。原曲はピアノ小品の「メヌエット 二長調K.355(576b)」(1789)。

 第3曲は「祈り」。原曲は有名なモテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス(Ave verum corpus)」K.618であるが、チャイコフスキーはモーツァルトの原曲ではなく、F.リストがピアノ編曲したものから、この曲を書いている。

 第4曲は「主題と変奏」。原曲はピアノ曲「グルックの歌劇『メッカの巡礼』の『われら愚かな民の思うは』による10の変奏曲(10 Variationen uber "Unser dummer  Pobel meint" aus der Oper "Die Pilgrimme von Mecca" von Gluck)」K.455(1784)である。

 どの曲もバレエ音楽のように仕立てられており、特に第4曲はバレエ音楽作曲家としてのチャイコフスキーの本領発揮、というもの。なかなか聴き応え十分。

 私が聴いているCDはスヴェトラーノフ/ソヴィエト国立響によるもの(BMGのメロディア・レーベル。輸入盤)。1985年録音。2枚組でチャイコフスキーの4つの組曲がすべて収められている。
 このCDは現在入手困難なようだが、この中から第3番と第4番の2曲を収めたものは手に入る。

 それにしても、「モーツァルティアーナ」って言葉、なんともすてきな響きがする。