《これはあのころ、婦人矯風会というのが出てきましてね。盆踊りというのは太鼓叩いて踊った後で、男女で暗がりに消えるなんてことをしている。日本の恥だから禁止すべきという運動を起こしたんです。私たちの田舎では、盆踊りが終わるとすぐに収穫で、後はもう長い雪ですから、青年はそういう、暗がりの中に消えるなんていうことも楽しみにしていたんでしょう。私たち少年からすると、盆踊りだってふざけているわけじゃない、もっと本来的なものなんだと思って、意識的に題名をつけたんです。極端にいえば激怒したわけですけど》

5b3e316f.jpg  これは伊福部昭(1914-2006)が「日本組曲」(1933)の第1曲「盆踊」について語ったものである。

 「日本組曲(Japenese Suite)」は伊福部最初のピアノ曲である。ピアニストのジョージ・コープランドとの手紙のやりとりから作曲することとなり、曲名はその後「ピアノ組曲(Piano Suite)」と変えられたが、それは1935年の「日本狂詩曲」がチェレプニン賞を受け、“日本”が続くのもどうかと考えたことによる。
 そして、1991年になって「ピアノ組曲」は「管絃楽のための『日本組曲』」として生まれ変わった。
 曲は4つの楽章から成る。組曲という形式はいくつかの舞踊楽章から成るものだが、伊福部はすべて日本の踊りによる組曲を作ったのだった。

 第1楽章「盆踊」(BON-ODORI,Noctual dance of the Bon-Festival)
 盆踊りというのは、死者の霊を迎えて送るものである。
 力強く荒れ狂うような音楽。その作曲動機は冒頭の作曲者の言葉のとおりである。
 伊福部の師チェレプニンはこの曲を特に気に入っていたという。

 第2楽章「七夕」(TANABATA,Fete of Vega)
 この曲について伊福部は「(『七夕』という曲がありますけど)当時、和声学の規則では、平行5度は駄目だということになっていまして。和声が完全5度のままで進むのは気持ち悪く聞こえる、音楽になってないというわけです。それなら、自分は全部平行5度で行ってやろうと思って書いたんです。北海道などで暮らしておりますと、自然の中で生きていくためには絶対守らなければ掟と、まあ、これは破ってもいいんじゃないかということの見境が、ずいぶん早くからつきます。平行5度を禁ずるというような、つまらない掟は守らない、ということです」と述べている。
 男女が年に1度だけ会える日が、どこか懐かしげなしっとりした音楽で表現される。

 第3楽章「演伶」(NAGASHI,Profane minstrel)
 演伶とは「流し」のこと。作曲者の頭には新内節の流しがあったという。
 ゆったりとした時代劇音楽風の音楽と、激しい舞いの音楽。

 第4楽章「佞武多」(NEBUTA,Festal ballad)
 伊福部は北大に入学した1932年の夏休みに友人に誘われ南津軽郡の大鰐町を訪れた。このときにねぷた(ねぶた)祭りを見ることができた。
 その体験が、壮大な音楽として描写された。
 血が騒ぐ音楽である。

 どの音楽も陰りがある。でも、それが日本の音楽の美点だと私は思う。
 そしてそれは、決して“民族”から離れることのなかった伊福部の特徴であり、これこそが大きな魅力である。

 私が聴いているCDは管弦楽化された「日本組曲」の初演となった、井上道義指揮新日本フィルによるライヴ録音(1991年)。
 ただ、このCDは現在廃盤のよう。

 夏の日の夜、盆踊りの歌が遠くから聞こえてくると、なんだか物悲しくなる私である。
 それにしても盆踊りのあとに“営む”なんて、盆踊りそのものが昆虫なんかの求愛ダンスみたいだ。

 冬になろうという今の季節に、盆踊りの話を持ち出してすまんかったです。

 参考文献:木部与巴仁「伊福部昭 音楽家の誕生」(新潮社)