オバマ大統領がノーベル平和賞をとったそうだ。
 「とったそうだ」というのは、私が自分でそのことを確かめたのではなく、報道でしか伝えられていないからだ。

 って、そんなこと本気で言ってるわけではない。いやだわぁ。ワタシ、そんな男じゃなくってよ!
 そんなひねくれたこと言ってたらこの世の中生きていけない、暮らしていけない。信じられるのは自分で目が届く範疇での出来事だけになる。おぉ、視野狭窄!

 でも、なかには信じない人もいるだろう。
 いや、そういう人が確実に存在する。
 ずいぶん前だが、私は一度、信じ難い「現場」を見たことがある。

 レストランを利用しようと街中のホテルに入ったら、途中にある部屋で何かの会合が行なわれていた。入口の看板に書かれていた名称から、今で言うなら村上春樹の「1Q84」に出てくる宗教団体というか自給自足コミュニティみたいな匂いが感じられた。
 おそらく休憩のためだろう。その部屋の前に置かれた椅子に座って会話しているおばちゃんたちがいた。そこを通るとき、私の耳に入って来たのはこんな話だった。

 「ほんと、みんな、いつまでだまされてるんだろうねぇ」
 「あんなの作りものに決まってるのに、どうしてわからないのかしら」
 「飛行機がビルに体当たりするなんてありえないし、あんなビルがそれで崩れるわけないじゃない」
 「アメリカって国はほんとにうそつき。あんなニュース、嘘に決まっている。月に行ったのだって嘘なのに……」

 つまり、この人たちは9・11テロの一連の出来事がすべてアメリカがでっち上げたウソだと言っているのだ。では何のためにアメリカはそんな“作り話”をしたのか?その理由を知りたかったが、長居は無用。恐ろしや。
 しかも、どうやらアポロが月面着陸したのも嘘だと信じている。すごい。
 だからオバマ大統領のノーベル平和賞の話を、最初にちょっと変な人っぽく書いたってわけ。全然理由になってないけど。

 1964年のノーベル平和賞はアメリカのプロテスタント・バプテスト派の黒人牧師マルティン・ルーサー・キング(Martin Luther King Jr. 1929-1968)が受賞している。キング師はアフリカ系アメリカ人の公民権運動の指導者であったが、1968年の4月に暗殺された。

 その名、「O King,Martin Luther King」という言葉を音節に断片化したものが、女声で発せられる曲がある。
 イタリアの作曲家ベリオ(Luciano Berio 1925-2003)の、「シンフォニア(Sinfonia)」(1968.第5部は1969に追加)だ。
 その第2部がキング師のオマージュとなっている(曲はキング師が暗殺された後の10月に初演されているが、ベリオは前年の1967年にこの室内楽版ともいえる「O King」を書いていた)。

44532ce1.jpg  この「シンフォニア」、いかにも前衛音楽って匂いがプンプンする曲だ。いや、ニュアンスとしては私にとって「だった」と言った方があってるかもね。って唐突にカワイコぶったりする。
 最初に聴いたときは、どんな顔して聴けばいいんだかわからなかった。
 うろたえ、恥じらい、ときには笑いをこらえた。だが、いちいち表情を変えるのは私のポリシーに反するので、偏頭痛に耐える鉄仮面のような顔で聴いたいた。

 そのときはリビングで買って来たCDをかけてみたのだが、第3部に入ったときに、ついに妻は雄たけびを上げた。
 「何てへんてこりんなものを鳴らすのすぐに消して」と、私自身が選挙カーでもあるかのように文句をつけてきたのだった。
 「鳴らす」はひどい言い方だと思うけど……

 ちょうどそのころ、私に感化されてクラシックを聴き始めた上司がいた。
 クラシック音楽の鑑賞レパートリーをとにかく広げようと、なんでも私の真似をしていた彼は、私にこう聞いてきた。
 「ねぇねぇ、最近はどんなの聴いてるの?いいのある?」
 市場に魚を買い付けに来てるわけじゃあるまいし、「いいのある?」はないだろうが……

 私は、持っていた今や絶滅したCDウォークマンで、ベリオの「シンフォニア」を聴かせてあげた。彼は、傷みかけたホヤを口にしたときのような顔をして逃げ去った。

 私は現代音楽作品をそう毛嫌いする方ではない。どちらかと言えば、積極的スタンスだ。でも、「シンフォニア」には最初、焦った。何も焦る必要はないんだけど。

 でも今は、最初に抱いたバリバリの前衛音楽という印象はなくなった。ストラヴィンスキーの「春の祭典」が“現代の古典”と言われて久しいが、「シンフォニア」もそんな感じに聴こえてきた。不思議なものだ。

0627ce0f.jpg  5部から成る「シンフォニア」のうちメインとなるのは第3部。
 マーラーの交響曲第2番「復活」の第3楽章がベースで流れるなか(なぜ「復活」なのかは、ここでは置いといて)、バッハ、ベートーヴェン、ブラームス、ベルリオーズ、R.シュトラウス、マーラー、ドビュッシー、ラヴェル、ヒンデミット、ストラヴィンスキー、シェーンベルク、ヴェーベルン、アイヴズ、ブーレーズ、シュトックハウゼン、プッスール、グロボカールの作品の断片が引用される。

 これはすごい。
 音楽史一大絵巻。

 引用されている作品のうち、もちろん私の知らないものもあるだろうが、引用された曲がはっきりわかるものもあれば、なかなか気づかないものもある。
 例えば始まってすぐには(まだ「復活」のメロディーが現れる前である)、マーラーの交響曲第4番第1楽章の鈴が引用されている(掲載譜。この譜はP.グリフィス著/石田一志・佐藤みどり訳「現代音楽 ― 1945年以後の前衛」(音楽之友社)から引用した)。この部分は、私も同書を読むまで気づかずに聴き進んでいた。
 本で知ったあとに聴いてみると、弱音でさりげなく4番の鈴が引用されている。さらには、ドビュッシーの「海」の「波の戯れ」の冒頭も現れている。
 いやぁ、背筋が寒くなるくらい感動してしまった。

 この楽章、とにかく引用しっぱなしなのだ。
 第3部のテキストはベケット(Samuel Beckett 1906-1989.アイルランドの作家。1969年にノーベル文学賞を受賞)の「名付けえぬもの」を中心として、1968年のパリ5月革命のスローガンや作曲者の友人たちとの会話の断片などが使われている。
 そして(私の聴いているCDでは)「ありがとう、ブーレーズさん」という言葉で第3部は閉じられる(そのときの指揮者の名前を言うようになっている)。

 このほか、第1部は文化人類学者レヴィ=ストロース(Claude Levi-Strauss 1908- )の「生のものと火にかけたもの」からの言葉の断片がテキストとなっている。第4部は第1部のテキストの抜粋が用いられる。あとから追加された第5部は、第1部から第4部までの「和合(ユニテ)」だという。
 なお、Sinfiniaというのは交響曲(Symphony)とは関係なく、“響き合い”という本来の意味からつけられている。
 編成は女声4、男声4、picc、fl3、ob2、E-hrn、cl(B)3、cl(E)、A-sax、T-sax、fg2、hrn4、trp4、trb3、tuba、hp、pf、電気org、電気hpsi、perc3、vn24(8×3parts)、va8、vc8、cb8.
 ニューヨーク・フィルハーモニック125周年記念委嘱作品として書かれた。

 私が聴いているCDは、ブーレーズ指揮フランス国立管弦楽団、ニュー・スウィングル・シンガーズによる演奏のもの(エラート)。1984年の録音。

 最初はすっごく奇異に感じた曲が、いまではこんなにいとおしくなるなんて、愛って不思議なものね……
 「嫌よ嫌よも好きのうち」ってやつの一種だろうか?
 すっごく僭越な言い方で申し訳ないが、とにかく良くできた曲である。数学的な美しさみたいなものさえ感じる。