小学校のときの全校朝礼で、その日の朝、校長先生が校庭に残されていた野糞を発見し、その憤懣やるせない感情を児童全員と共有しようという目的で話されましたとさ、ということを書いたのは数日前のことだ。

 そのブログを読んでくれた私の愛読者(そういう気高い人たちをムゥネリアンと呼ぼう)の1人と酒を飲んだら、その方はご自分の悲しき体験を教えてくれた。教えてくれたということは、書いてくれ、その憤懣やるせない感情を世間の皆さまと共有したい、という野望を抱いているとうことだろう。だから書くことにする。

 その人の名をここではとりあえずエリザベートということにしておこう。

 その人が若い頃―これで、この人が現在は若くないことが推察されることとお喜び申し上げます―のことだが、ある日の朝、ゴルフに行こうと自分の車のところへ行くと、まぁ、なんということでしょう、ボンネットにはウンコがてんこ盛りになっているではありませんかっ。
 そのウンコはどう考えても一人のものとは思えないボリューム!匠のサービス精神が伝わってきます。

 ということなのだそうだ。“不快ビフォー・アフター”である。

 しかも、ボンネットにそのように盛られているということは、当然そこに上がってしゃがんでしなくてはならない。果たしてそのとき、フロントガラス側を向いてしたのか、フロントガラス側にケツを向けたのかは知る由もないが、案の定、踏まれたせいでボンネットはところどころ凹(へこ)んでいたという。

 その人は言った。
 「そのころは車にすっごく興味があったから凹まされたのに腹がたって腹がたって……。それにウンコの量だって3人分はあった。いたずらにしては悪質すぎる!」

 誰のどのような体調下でのウンコと比較してそれが3人前と言えるのか、私にはよくわからなかったが、もしかすると力士1人の成せるわざということも考えられる。
 でもさあ、それって悪質ないたずらじゃないと思うなぁ。
 絶対、誰かに恨まれてたんだと思う。
 あれ、エリザベートなんて仮名を設定する必要なかったな……

 このところ、ウンコだの吐き気だの、美しくない(ということは私らしくない)話のウエートが高くなってしまった。これは当ブログの本流から外れる(とも断定できない)。
 オーケストラだったら、若杉弘が言っていたように「マーラーばっかり演ってたら、音が荒れる」状態だ。
 よし、爽やかにモーツァルトでも聴こう!
 いやっ、だめだ!モーツァルトは糞便愛好家だった!

 じゃあ、爽やかじゃあないが、エリザベートのために(やっと仮名を有効利用できた)ブラームスの「悲劇的序曲」を聴こうではないか!

f36f449a.jpg  ブラームス(Johannes Brahms 1833-1897)は、1880年に「大学祝典序曲(Akademische Fest-Ouverture)」Op.80と「悲劇的序曲(Tragische Ouverture)」Op.81の2つの序曲を書いている。
 「大学祝典序曲」の方は、1879年にブレスラウ大学の名誉博士号を与えられたその感謝の印にと書かれた。ブラームスはこれを「笑う序曲」と呼んだが、同時にこれと対になる「泣く序曲」も書こうと思い立った。
 偉い人の思いつきってよく理解できないなぁ……

 「悲劇的序曲」は、しかしながら何らかの具体的な悲劇を頭において作曲されたものではないという。
 シューマン(Robert Schumann 1810-56)の未亡人クララ(Clara Schumann 1819-96)に献呈されている。ブラームスは生涯、彼女を愛し続けたというが、かなわぬ愛の悲劇か……って無理にこじつけちゃいけないな。
 なお、初演は「大学祝典序曲」よりも先、1880年に行なわれている(「大学祝典序曲」は1881年初演)。

 「悲劇的序曲」の演奏では、私はセル/クリーヴランド管弦楽団のものがけっこう気に入っている。そう、村上春樹の「1Q84」の中で、その「シンフォニエッタ」のレコードが取り上げられたおかげで、急に有名になった指揮者セルである(もともとクラシック界では有名だけど)。

 セルの演奏は決して感情的にならないのが、かえって悲劇的な雰囲気を醸し出していると思う。1966年録音。
 残念なことに現在は廃盤。

 エリザベートよ、嘆くなかれ!