〔これまでのあらすじ

 節分の夜。ベリンスキー候とアイゼンシュタイン氏と私の3人は、札幌市内の蕎麦屋に集合し飲食を共にしたり、交代でトイレに行ったりする会議を行なった。ベリンスキー氏はこの会議の席上でも納豆そばを食べるなど、極めて健康的であることをアピールした。
 会議のあと、私は“ビバ・トレード”という名のバーに向かったが、きび団子も与えていないのに氷上をよたって歩く駄犬のごとくアイゼンシュタインがついてきた。私は何度か「シッ!シッ!」と追い返したが、転びそうになったときに杖代わりにできると考え、同行を許可したのだった。

[E:dog]

 “ビバ・トレード”が入居しているビルに入り、エレベーターのところへ行くと、そこには女性が1人立っていた。エレベータのドアに向かってまじないでもかけていたのかと思ったが、単にエレベーターに乗るために待っているらしい。

 アイゼンシュタインが「いやぁ、寒いですね、ね、ねっ[E:sign02]」と私に言った。
 そんなこと言っても暖かくなるわけがない。慰めどころか、寒さを強調しているだけだ。
 そのアイゼンシュタインの声を耳にしたエレベーター待機女が振り返り、言った。
 「あなたは不幸になります……」

 ……だったら怖いし、いい迷惑の余計なお世話。不幸ぐらい、勝手にさせてくれ。
 まっ、そう言われたというのはウソ。
 
 その女性は、“ビバ・トレード”の店員カトナーリャであった。
 彼女は私たちに向かって、「ふひゃあ~っ。声を聞いてわかりましたぁ」と、凍りかけて自動車の車体にへばりついた、ドアのゴムパッキンのように硬直した口を開いて言った。

 私たち3人はエレベーターに乗り込んだ。
 エレベーターの中で、私たちはたまたま乗り合わせた見ず知らずの人同士のように無言だった。
 店のある階に着いた。
 エレベーターのドアが開くと、目の前に店長のカチャカポコナがいて、ぎこちない笑顔で「いらっしゃいませぇ」と店の方へ案内してくれた。あとから知ったことだが、このとき店長はおしっこを溜め込んでいて、トイレに行くところだったらしい。
 しかし、私たちの姿を見た以上、そのままトイレに駆け込むわけにはいかず、相当な無理をしていたようだ。当然、われわれを出迎えるために立っていたわけではなかったということだ。

 店は空気の缶詰のようにすいていた。
 店内にいたナタオーシャは、自分の運勢すら当たらない占い師のように、退廃的な表情でガラスの冷蔵ケースをじっと見つめていた。

 トイレから戻ったカチャカポコナは、聞いてもいないのにワインを飲みたいと、甘えんぼうの寄生虫のようなことを言い出した。
 いやなことがあって、何かを忘れたいのだろう。
 好きにしたらいい(自分で払いなさい)。
 でも、本当の理由は在庫処分をしたかったのだと思う。

 私は「あっ、節分だから、途中で恵方巻きでも買ってくれば良かったなぁ」と、何気なく言ってみた。
 その反応はすごかった。

a7845c33.jpg  国会答弁でちょっと言い間違いをしたときに野党が大騒ぎするかのように、カチャカポコナとナタオーシャとカトナーリャは、食べたい!、食べたい!食べたい!食べたい!食べたい!、と一斉に、かつ、執拗に、私に言葉を浴びせた。

 まるで、村上春樹の「とんがり焼の盛衰」(「めくらやなぎと眠る女」(新潮社)に収録されている。あと、講談社文庫の「カンガルー日和」にも)に登場する、おぞましい“とんがり鴉”のようだ。
 3人ともバーテンダーのごとく黒服を着ているから(仮装じゃなくて、これが制服なのだ。格好だけはなかなかだが、技術は伴っていない)、まさに鴉(カラス)のようだ。

 「わかった、わかった」
 私がそうつぶやくと、なぜかカトナーリャは店の奥へ引っ込み、次の瞬間コートを持って急ぎ足で戻ってきた。

 「私がコンビニに行って買ってきますっっ!」
 すごい……。すごすぎる積極的な姿勢。
 腹を満たしたいという欲求は、人をこのようなすばやい行動に駆り立てるのだ。

 私は財布から千円札を出して渡した。
 カトナーリャはすばやくそれを冷蔵ショーケースの明かりにかざし、偽札でないことを確認したあと、先走る気持ちをなんとか抑えてにやっと笑い、「いいんですかぁ~」と言うや否や、ドアの外へ飛び出して行った。119番通報を受けて出動するレスキュー隊員のように素早かった。

 数分後、必殺恵方巻き仕入れ人のカトナーリャからカチャカポコナに電話が入った。
 カチャカポコナは私に「代わってください」と電話を渡した。話が複雑らしい。
  「あのぅ、1本380円のと、3本で1,000円のの2つしかないんですけど、どちらを買ったらいいでしょうか?」

 “はじめてのおつかい”かっ[E:sign02]

 「それは税込価格ですか?」
 「はい、そうだと思います」
 「じゃあ、3本のにしたら」
 「え~っ、いいんですかぁ~」
 そして遭難船からの無線のように、電話はブツッと切れた。
 もし、「税込みで1,050円です」ってレジで言われたら、彼女は間違いなく本当に泣き崩れたと思う(千円札だけを握り締めて外へ飛び出して行ったのだ)。

 こらこら、アイゼンシュタイン、自分だけの世界に入ってポップコーンを食べてるんじゃないっ!

 数分後、彼女は戻ってきた。
 手にぶら下げているローソンの袋には、まるで幸せという名の惣菜が入っているかのようだった。

 その恵方巻きは長さが20センチ弱、太さが3センチくらいの“中巻”だった。
 これで1,000円?
 けっこう高い。
 本当に1,000円したのか?
 途中、何か買い食いしなかったか?
 
 いまこの店には5人いる。
 意識が数億年彼方の銀河宇宙にまで飛んでしまっているかのように、ボワーッとしている客が1人(私ではない)。
 とても上品で、洗練されていて、どれだけアラを探そうとしても見つけられない紳士的な客が1人(アイゼンシュタインではない)。
 そして、三羽烏(カラス)である。

 私は最初から食べる気はなかったし、そしておそらくアイゼンシュタインも食べられる状態ではなかったが、3人のカラスたちはそれを知らない。
 3を5で分けるにはどうしたらいいのだろうかと、割り算を習ったことのない幼稚園児のような不安の表情を浮かべている。
 割り切れなければ死闘をするしかない……

 アクションを起こしたのはカチャカポコナだった。
 しかし暴力的な強奪ではなかった。恵方巻きを半分に切ったのだ。
 さすが店長を務めているだけはある。

 3が6になった。
 でも、何の解決にもならない。
 6を5で分けるほうが、より壮絶になるってことに気づいていない。

 ここでナタオーシャが、ついに我慢できなくなって言う。
 「あっ、サーモンが入ってる!私、サーモン大好きっ!」
 これは言うまでもなく「私は食べるわよ!死んでも口に入れるわよ!」という宣戦布告である。
 次の瞬間、カチャカポコナは1切れ(つまり1本の半分)を、「方角はこっちだったわよね」と言いながら口に入れる。
 もう方角なんてどうでもいいくせに、わざとらしい言い訳だ。
 とにかく腹を満たしたいんでしょ?
 カチャカポコナな無言で寿司を口に押し入れている光景は、かつてTVで観た動物ドキュメンタリーの、ヘビがウサギを飲み込む様子を思い出させた。

 ウォーッ、という感じでナタオーシャとカトナーリャが続く。
 みんなバラバラの方角を向いて……
 地軸がずれているのか?……

 さあ、残ったのは3切れだ。
 「食べないんですかぁ~っ?」と、カトナーリャが私に聞く。
 私は「3人で食べていいよ」という。
 アイゼンシュタインはボーッとしたままだ。先ほど来の頭蓋骨内の架線事故がいまだに復旧してないようだ。
 だから(というのは何の脈略もないが)、私は氏に角のようなかぶりものをのせてやった。赤く電気が灯るのだ。
 なんでこんなものがバーにあるのかよく理解できないが……
2ca56190.jpg  その結果、氏は、悪魔に魂を売った腑抜けた鬼のようになった(写真参照。なお、これを見て「腹が立った」「不愉快だ」「気分が悪くなった」などと、読者の方に不愉快な思いをさせてはいけないので、氏の恥部、すなわち顔はトリミングして消去した)。

 「ありがとうございまーす!」
 彼女たちから、偽りなく心から感謝しているのが伝わってくる言葉を、私は初めて耳にした。
 が、その残響が消え入らないうちに、3人はパン食い競争でもしているかのように、一斉に不幸な恵方巻きを(いや、こんなに喜ばれているのだから幸運な恵方巻きと言うべきだろう)、瞬時に胃袋に押し込んだ。
 その光景は、最近TVで観た動物ドキュメンタリーの、オオカミウオが小さな魚を瞬時に飲み込んでしまう様子を思い出させた。
 せっかく鬼に扮した(けど、本人の自覚なし)のアイゼンシュタインなど見向きもせずに……

 3人に“恵”がありますように……

[E:note]

 ということで、鬼にちなんだ曲を。
 サティ(Erik Satie 1866-1925 フランス)の21曲からなるピアノ曲「スポーツと気晴らし(Sports et divertissements)」(1914)

 異端児サティに関しては「ジムノペディ」のときに書いているが、とにかく彼の書く曲のタイトルがユニークである。
 「スポーツと気晴らし」では、序曲となる最初の曲が「食欲不振のコラール」というタイトルがついている。

 それはともかく、この作品の第5曲が「目隠し鬼」である。
 当夜のアイゼンシュタインは目隠しはしていないまでも、目隠し状態のようにボァーンとした鬼もどきであった。

3e5d0eda.jpg  私が持っているCDはバルビエのピアノ演奏によるものだが(1971年録音。ビクター)、演奏はともかく、録音が良くない。ちょっとねぇ~、である。それに現在廃盤中。

 ちなみに「スポーツと気晴らし」は、シャルル・マルタンという画家が描いた風俗画集の絵に1曲ずつ短い曲を添える、という企画から生まれた作品である。21曲のタイトルは、

 序(食欲不振のコラール)/1.ブランコ/2.狩/3.イタリア喜劇/4.花嫁の目覚め/5.目隠し鬼/6.魚釣り/7.ヨット遊び/8.海水浴/9.カーニヴァル/10.ゴルフ/11.蛸/12.競馬/13.陣取り遊び/14.ピクニック/15.ウォーター・シュート/16.タンゴ/17.そり/18.いちゃつき/19.花火/20.テニス

となっている。

 しかしである。ボァーンとしていたアイゼンシュタインはそのまま“あぼーん”せず、眠りからさめたガラモンのように、突然スイッチが入った。
 架線の修復が済んだようだ。
 「歌いましょっ!ねえ、歌いましょっ!」
 そう、彼は言った。

 以下、続く。気が向けば。向くと思う。