90e618a3.jpg   同じフロアで仕事をして(いるふりをして)いるある女性社員が私に教えてくれたのだが、私の課にいる嘱託のおじさん社員が、「トイレ1が無くなった」と狼狽しながら地味に騒いでいたそうだ。

 私はてっきり、おじさんが便所に入ってみたら一番手前の個室が忽然と消失してしまっていた、という超常現象かと思ったが、そんな怪奇的な話ではなかった。

 おじさんがコピーをとっていたとき(この世代の人はしばしば「コピーを焼く」と言う。知らない若者世代の社員が焼却処分したらどうするんだ?)に用紙が切れて、ディスプレイに「トレイ1に用紙がありません」とかなんとか表示されたメッセージを見て、「トイレ1がなくなった」と読み違えた挙句、とにかく意味不明の焦燥にかられ、かといって大騒ぎもできず、あたりにさりげなく聞こえるように、誰か手を差し伸べてくれるように、つぶやいていたのだ。

 そのおじさんの話である。
 少し前のある日、「今朝の朝刊読みましたかね?」と私に話しかけてきた(今朝の夕刊はないんだけど)。
 「読みましたよ。〇〇さんの好きな“はぐれ刑事純情派”の今日の再放送は“襲われた女子大生!殴られ屋が殺人犯!?”だったですよ」
 「いやいや、そうじゃなくって」
 「じゃあ、“午後の指定席”のことかな?TVhの。それは“女検事霞夕子(10)執念”の再放送でしたよ」
 「そうそう!」と膝をポンっと打つ。あまり強く打って、折れてしまわないかちょいと心配である。
 「明日は“銀座高級クラブママ(2)青山みゆきVS浪花キャバクラ女帝殺人事件”でね。どっちもビデオをセットしてきからそれはいいんだけどね、そうじゃなくって堀江貴文、あのホリえどんが北海道内のNPO法人とコロッケ屋を立ち上げるようですよ」
 「その記事なら読みましたよ。ホリえどんじゃなくてホリえもんですし、コロッケ屋を立ち上げるんじゃなくて、ロケットを打ち上げるという記事でした」
 「えっ?」
 このおじさん、疑い深い性格らしく、会社に届いている北海道新聞を開いて確かめていた。
 もちろん、私が正しかった。
 悪びれる様子もなく、なぜか深いため息をついていた。
 今日の昼はコロッケ丼を食べさせてやろう、と私は思った、わけがない(そんな丼あるのか?)。
 以上、ちょっとしたエピソード。

 8日の北海道新聞夕刊に、2月26日27日にKitaraで行なわれた札響第526回定期演奏会の評が載っていた。評者は北海道情報大学教授の三浦洋氏。
 演奏会から9日も経っている。紙面の都合もあるのだろうが、それにしても新聞のくせに間があきすぎではないか?って、その新聞に対する私のこの反応も、間があきすぎだけど、ブログのくせして……

 その評にケチをつける気はないが、工藤重典について「フルート1本とは思えない音量」と書いてある点は、私が感じたのとずいぶん違う。
 それからショスタコーヴィチの交響曲第8番について、「今回のダイナミックな演奏に画竜点睛を欠く部分があったとすれば、派手さのない楽想が持つ美しさと緊張感をどう表すかという、指揮者とオーケストラにとって永遠の課題である」と書かれているが(この日本語、どうも私にはしっくりこない)、私は第4楽章など立派な演奏だと感じた。実はこの演奏会後、それまではどちらかというと第2、第3楽章を中心に聴いていた私の嗜好が、第1、第4、第5へとシフトした。というよりも、全曲を通しで聴くことが多くなった(暇ということではないですから)。私の中で何かが変わったのよぉ~。
 そのように私が影響を受けたからといって、だから札響の緩徐楽章の演奏はすばらしかったと言い切れるものではないが、決してそこで高関の表現が不足していたとは思えなかった。もしこの日の演奏を録音したものを聴けばまた違うのかもしれないが……。
 この点が、新聞評と私との感じ方が違った。

6ace5f1a.jpg  宮部みゆきの「楽園」が文庫化されたので、買って読んでみた。
 つまり立ち読みとか、図書館で借りたとか、万引きして読んだのではないということを、特段意味はないものの、ここで訴えたかった。

 宮部みゆきの小説を読むのは、実は2作目である。
 前に読んだのは「模倣犯」。村上春樹が「ねじまき鳥クロニクル」の中で詳しく書いていたのは、ノモンハン。
 ……はいはい面白いですよ……
 でも、事実ではある。
 笑いを狙った私が愚かなだけだ。

 「模倣犯」は、今から6~7年前に私に文庫本を貸してくれた奇特な方がいて(そのままくれたのなら超奇特だったのに……)、「ふ~ん、面白いのかな」と半信半疑、いやむしろ斜に構えて読み始めたものの、全5巻を一気に読んでしまった。いや、すいません。正確には2週間ほどかけました。
 実に緻密な構成だとすごく感心させられた(生意気な言い方でごめんなさい)。村上春樹の小説も時系列など構成は緻密だが、宮部みゆきの緻密さはまた別な類のものだ(推理小説ってこともあるんだろうけど)。
 そうそう、村上春樹を私に紹介してくれたのも、同じ方である。
 別に書店に勤めていた人じゃないのだが、当時私が単身赴任で退屈していると思ったのか、小説を読むことを薦めてくれたのだ。
 「音楽関係の本ばかり読んでても人生の幅、心の深みは得られないでしょ?ましてや、モーツァルトとお友達になれるわけでもないでしょ?だったら、小説を読んでみたらいいと思う。村上春樹は面白いですよ」
 こうは言わなかったにせよ、人生に幅があるとは決して言えない人にこういうニュアンスのことを言われるのもどうかなぁと淡い疑問を抱きつつも、こうして私は村上春樹の世界にはまってしまったのだ。
 だから、結果としてはこの人には素直に非常に感謝している。

 「模倣犯」についても読むことを強く勧められた。
 読後、あるとき酒を飲みながらこの小説の内容を話題にしようとしたら、「まだ読んでないから、話すな」と言われた。
 このように、自分が読んでいない小説を人に薦めるほど、この人は奇特だった。まあ。無責任とも言えるけど。

 ただ、「模倣犯」は面白かったが、そのあと私は宮部みゆきには走らなかった。
 より村上春樹の作品に惹かれた私には、彼の作品を次々と読まなければならなかったからだ。

 春樹作品のほとんどを読み終えてしまったし、「1Q84」のBook.3もまだまだ刊行まで時間があるから、「楽園」の文庫化を待って宮部みゆきにとりかかることにした。
 内容はここでは書けないが(言っておくが書く能力がないのではなく(乏しいにすぎない)、内容をばらさないために、である)、続編ではないものの「楽園」は「模倣犯」の“その後”である。

 「楽園」では“ひとりごちる”という言葉が1回だけ出てくる。
 “ひとりごちる”については、以前に光文社古典新訳文庫に関連して書いたことがあるが(私のブログには“ひとりごちる”という検索キーワードから訪問してくれる人がけっこういる)、この古い言葉が「楽園」で出てきたことに驚くと同時にちょっと違和感を覚えた。

 それにしても、面白かった。
 これまた、上下巻を一気呵成に読み終えてしまった。いや、すいません5日ほど費やしました。

 さて、「楽園」の“楽園”とは……?
 言いたいけど、言えない。むずむず……
 あっ、上の写真は“楽園”という品種のバラ。My Gardenで昨年撮影。
 名前からわかるように、日本で作出された品種。英語名?Rakuenです。
 笑点?Enrakuでしょ、それ。
 昇天しちゃったけど。

 私は通勤電車のなかで「楽園」の最後のページを読み終えたとき、感動のあまり床に本を落としてしまった。いや、手先にガタがきてるだけだ。
 この時期の電車の床は泥まじりの水で濡れていて汚い。
 真冬だったら、靴についた汚れていない雪が車内でとけるので床が濡れていてもだいたいはきれいだ。しかし、春が近づき雪解け中の歩道や道路は汚い。
 電車の床もきちゃない(← “汚い”をかわいらしく言ってみた)。
 表紙は文庫カバーをかけているのでいいが、“小口”の部分が汚れてしまった。
 泥のような汚れの、まさに水玉模様。しくしく……

 「楽園」の第1章のタイトルは「亡き子を偲ぶ歌」。
 クラシック音楽を聴く人間にとって、このタイトルは、すぐにマーラーの歌曲と結びつく。
 で、素朴な疑問だが、マーラーの曲を知らないで純粋な日本語として見た場合、「亡き子を偲ぶ歌」って、一般的なものなんだろうか?と、どーでもいいことを考えてしまった。すまん。

b3a34fa7.jpg  話は変わって、前回触れたフォーレ(Gabriel Faure 1845-1924 フランス)の「レクイエム(Requiem)」Op.48(1887-88)について。

 この「レクイエム」は、数あるレクイエムという作品の中でも最も傑作とされるものの1つ。
 
 デュリュフレのレクイエムのときに書いたように、このレクイエムも最後の審判の日を描く「怒りの日(Dies Irea)」の楽章を持たず、また終曲は天国での永遠の安息を願う「楽園(天国)にて(In Paradisum)」となっている。
 「入祭唱とキリエ」「オフェルトリウム(奉献唱)」「サンクトゥス(聖なるかな)」「ピエ・イエズ(慈悲深きイエスよ)」「アニュス・デイ(神の小羊)」「リベラ・メ(我を解き放ち給え)」「イン・パラディスム(楽園にて)」の7つの楽章から成る。

 フォーレは1885年に父の死に、その3年後には母の死に遭遇する。
 しかしフォーレは「レクイエムを作曲した特別な理由はない」と語っている。
 下で紹介するCDのライナーノーツの解説(ロジェ・ドラージュ氏による)を引用すると、フォーレは1902年にこう打ち明けてるという。

 《私の「レクイエム」は死の恐怖を表現していないのではないか、と言われています。死の子守歌だと言う人もいます。でも、私の死に対する感じ方というのはそういうものなのです。苦しみに満ちた通過点ではなくて、幸福な解放感とか来世の至福への憧れの気持ち、というようなものなのです。……おそらく私は、本能的に、慣習から抜け出そうとしたのだと思います。なにしろ長いこと葬儀のオルガン演奏を務めてきましたから。もうたくさんだと思ったんです。ほかのことをやりたかったんですよ》(渡辺正 訳)

 なお、この「レクイエム」は一度に書き上げられたのではない。

 第1稿となるのは1887年から88年にかけて作曲されたもので、「入祭唱とキリエ」「サンクトゥス」「ピエ・イエズ」「アニュス・デイ」「イン・パラディスム」の5つ。
 第2稿は1890年までに書かれ、「奉献唱」と「リベラ・メ」を追加作曲。
 第3稿は1900年までに書かれ、フル・オーケストラ版となった。
 ただ、第3稿は楽譜出版社からの要望によるもので、フォーレの望むべき形だったかどうかは疑問視されている。
 
 私がよく聴くCDは、クリヴィヌ指揮国立リヨン管弦楽団、同合唱団、ガエル・ル・ロワ(ソプラノ)、フランソワ・ル・ルー(バリトン)、ジャン=ルイ・ジル(オルガン)による演奏(それにしてもルが多い。ルルルルル~ ← “ほたる”か?)。1989年録音。DENON。
 ただ、このクリヴィヌ盤は現在のところ販売終了の状態。
 そこで、クリヴィヌ盤を買うまでは私がずっと聴いていたクリュイタンス盤も紹介しておく。CDの詳細情報は ↓ 。

 “ほたる”で思い出したが、「北の国から」の最初のころだと思うが、ゴロウが亡くなった妻(役はいしだあゆみ)を夢か何かで見たときに、この作品の「イン・パラディスム」が音楽として使われていた。