9d0d25c5.jpg  その昔、田舎に住む親戚の葬式に出て非常に違和感を覚えたことがある。

 葬儀はお寺で行なわれたのだが、寺の壁面に所せましと並べられていたのは花輪、ではなくて花輪を写したポスターだったのだ。

 同じポスター、花輪だけが無機質に写っているポスターが駅貼り広告のように並んで貼られている。
 これは異様な光景だ。
 遺族によっては故人をバカにしてるのか、ってことになりかねない。

 私にとってはまったく未知の体験だったので、恐る恐る地元の人に聞いてみた。
 その人は当然のように答えた。

 「これはね、新生活運動っ!」

 はぁ……
 つまりは新しい生活の運動なわけか……
 なんでも、生花はお金の無駄。だからポスターにする、ってことらしい。
 別に私が文句や不満を言うようなことではないから、珍しいものを見させてもらったわい、とあとは黙っていたが、まだあの運動は続いているのだろうか……?

 あと半月ほどで父の1周忌である。
 ご存じのように、あるいはご存じないように、もしくはご興味がないように、父の49日法要のあと、あの好戦的な母親と生ける屍的な弟が住むあの家を、私は訪れていない。
 1周忌も避けて通りたいのだが、さすがにそうはいかない。

 そういえば、先日妻が、近所の奥さん(友人)に聞かれたそうである。
 お父さんが亡くなって、旦那さんにも少しは分けてもらえたんでしょう?、と。
 それは嫌味とか興味本位ではなく、純粋にそうあるはずだという感じで。

 しかし、私は何も分けてもらっていない。
 財産なんてないが、家が建っている土地は札幌市内にある。
 それも、生前の父の言葉によって(もちろん法的根拠はない)、母親の名義になるよう分割は放棄した。
 ほかにもなんにももらっていない。
 その奥さんは驚いていたようだが(入院からお葬式まで、何かと物入りだったでしょうに……)、もしかすると親戚筋でもそう思っている人が少なくないのかもしれない。
 そうだったら、そういう誤解を受けているのはすごく嫌だ。
 何らかのものを寄こせと言う気はまったくないが、何かをもらっておいて、もらったら行き来しなくなったと誤解されるのは耐え難い。

 まあいいや。
 今日のところは。

 今から27年前、「おやじ、涅槃でまっている」という遺言を残して新宿のホテルから飛び降り自殺したタレントがいた。
 沖雅也。31歳だった。
 その前から、かなり心を病んでいたらしい。
 これで涅槃という言葉を知った人は少なくなかったはずだ。少なくとも当時の私のような子どもには。
 「涅槃で待ってる」って言われた方はたまらんな。「あの世でも会いたくない」と言われるのと、どっちの方がイヤだろう?

 黛敏郎(Mayuzumi Toshiro 1929-1997 神奈川)の「涅槃交響曲(Symphony Nirvana)」(1958)。1959年の第7回尾高省受賞作品。

 この作品の第1楽章には、前年に書かれた「カンパノロジー」で試みられていた、梵鐘の音響解析した成果をオーケストラによって再現する方法が取り入れられている。
 さらに、禅宗や天台声明の経文から採られたテクストが合唱によって歌われる。
 曲は6つの楽章から成る。

 ここでは岩城宏之指揮NHK響による1972年の演奏を。NHK-CD。他に間宮芳生、三善晃の作品が収められている。
 
 黛敏郎は芥川也寸志とともに、一時期はTVのクラシック番組の司会者などでスター的な存在でもあった(師は芥川と同様、伊福部昭である)。
 黛は、しかし、天皇制や改憲論、反共産主義、戦争責任といった活動を盛んに行なった。彼がこういった政治的な側面を強くもったために、その音楽作品にたいしても色メガネで見られていることは否定できない。
 正直、私も黛の名を聞くと、すぐにそういったイメージがわいてくる。

 ただ、私は「涅槃交響曲」はけっこう好きだ。
 皆さんはお経を聞いて、「なかなかいいなぁ」と感じたことはないだろうか?
 私はずっとずっと昔、祖父の葬式の時に初めてそう思った。
 僧侶1人が読経したときにはそう思わないが、3人での“重唱”ともなればある種のエクスタシー状態。
 その音響が涅槃交響曲にもある。

 黛の「題名のない音楽会」の司会、ズドーンと重かったなぁ。
 でも、ソース焼きそばが大好物だったんだってさ。