7ea08bf4.jpg  浦河旅行話の昨日の続き。

 “味の助六”の入口の引き戸を開けると……雪国だった。
 なぁ~んて……
 おっ?まさか助六をじょろくと読んでいる人はいないだろうな……

 扉を開けて、中に入る。
 しかし、「いらっしゃいませ」の声もなければ、「帰れ!」という罵声もない。

 私は瞬時に店内を見渡す。
 正面左側に4~5人が座れるカウンター(誰も座っていない)。
 カウンターには寿司ネタを入れるガラスケースがあるが、中は空っぽ。
 カウンターの奥はほぼ正方形の広い厨房で、丸見え。
 入口の右側は、4人掛けのテーブルが3つ置いてある座敷。1テーブルだけ2人組の客でうまっている。
 その奥にも座敷があるが、宴会客が入っていた。よく見えなかったがたぶん10人以上はいたのだろう。

5b3835dc.jpg  厨房には初老の女性と、それよりはやや若い男性。

 女性の方は田舎町のドライブインを片手間でやっているおばさんって感じで、男性は、その格好から、寿司職人というよりは保健所の検査員みたいな感じ。

 ようやく男性がわれわれに気づく。でも、声はない。
 「あのぅ、予約してないんですが3人、入れますか?」
 私が聞くと、検査員は「いや、あの、今、ちょっと、すご~く、時間かかりますよ」と、これ以上店に入られてももてなせないという口ぶり。
 「じゃ、いいです」 と、早々に外に出た。

 どうやら宴会対応でそれどころではないらしい。
 でも、いいのだ。
 客の来訪にも気づかない態度(絶対視界に入っていたに違いないが)、そして空の冷蔵ケースを見た瞬間に、ここはやめといたほうがいいな、って気になったからだ。

 妻は、海鮮料理の“三之助”に行こうというが、次男が反対。私も心の中で反対。
 海鮮しかないのは困る。
 で、“旨や”に行くことにした。


 第1幕「浦河」、第2場「旨や」(第1場はチェックイン前の街めぐり)

 こちらの店は、女性がすぐに吹っ飛んできて、どうぞと案内してくれた。
 営業は17時からでどう考えても居酒屋なのだが、定食や丼のメニューがやたら多い。しかも、メガ・〇〇定食などもある。逆に一品料理の方が少ないくらいだ。
 最初に出てきた女性は実にきびきびとよく働く。
 というよりも、彼女しかホール係がいないのだ(あとからおばさんが(母親だろうか?)がやってきた)。

 料理はどれも美味しかった。
 妻は、ツブ刺しがひと味違う、と讃えていた。
 ひと味ってどういう味か知らないが、妻はツブ刺しとウニが好きなのだ。海中に住めばいいのに……
 次男は天丼を頼んだが、それも美味いと言っていた。
 この店を選んで正解。

 “飲み食い処 旨や”は最近オープンしたようで、ホテルでもらった地図にも手書きで書きこまれていた。だから電話番号はわからない……

 第1幕、第3場「早朝」

 翌朝、私はいつもの時間に目覚め(自動的に起床するのだ)、独り、車で街中のいろんなところを確かめに行った。

 ホテルの部屋は、ルームキーに付いているプラスティックの棒状のものを、部屋の壁に付いているスイッチ代わりの穴に差し込まなければ、照明やエアコン、テレビ、コンセントが使えない(エコのためだろうが、最近こういうのが多い)。

 しかし、私が戻って来たときにまだ妻が寝ている可能性がある。キーは持っていくべきだ。
 いや、起こしてはいけないという配慮ではなく、部屋を開けてもらえない恐れがあるのだ。
 そこで、その差し込み口に歯ブラシの柄の先を差し込んでおいた。こうやると、ちゃんと使えるのだ(カードキーを差し込むタイプのものは、名刺などを差し込めばよい)。こういうことは本来はしてはいけないのだろうが、例えばパソコンを使っている時に、ちょっと部屋を離れなきゃならない場合など、コンセントが死んではまずいので、こういう手を使う。参考にしておくれ。

 最初に絵笛に行く。昨日ブログに載せた写真だ。

 次に緑町というところに行く。私が住んでいたときには向別(むこうべつ)と言ったが、当時の向別の一部が緑町という呼び名に変わっている。

 ここを探索したのは、そのころ自転車でこっちのほうまで遊びに来たことが多かったのと、今でも年賀状をやりとりしている同級生がそこに住み続けているはずだからだ。

 道端に当たり前のようにミズバショウが咲いている。
 こういうのが嬉しい。

 途中、車を停め、川の下流の方を見る。
 えんじ色の鉄橋、そして対岸に見える材木置き場。この光景は昔と一緒だ。今回、当時と変わらないと思った数少ない眺めの1つだった(写真上)。

f959a0b7.jpg  かつて向別川にかかっていた人専用の吊り橋は、ちゃんとした橋にかけ替えられていたし(2番目の写真。昔は木立に囲まれていてこんなふうに見渡せなかった)、他にもいくつか当時はなかった橋がかかっていた。

 同級生の家はなかなか見つからなかった。
 彼はここで自営しているはずなのだが、看板もない。
 何度か行ったり来たりして、なんとなくそれらしい家を見つけて表札を確認すると、その苗字だった。しかし、名前が違う。おそらく父親の名前だ。

 どっちにしろ、あとからここを訪ねてみよう。家が違ったとしても、親に家を教えてもらえるだろう。

 かつては競走馬のセリ場があったところには、ショッピングセンターが建っていた。あのころはセリ場がある場所はずいぶんと遠いと思っていたが、こう来てみると実はけっこう近かったのだ。あたりには新しい家も建っている。そのあたりは競走馬の牧場だった。

 小学校のときの通学路をなぞってみたが、町並みはすっかり変わっていた。
 飼っていたウサギのために、おからを買いに行っていた豆腐屋はあとかたもなく、よくクジを引いた駄菓子屋もなかった。

 7時ころに、ホテルに戻る。
 案の定、妻はまだ寝ていた。
 彼女、地震がきても起きないかもしれない。


 第2幕「観光」、第1場「えりも岬」

 浦河の中心部を通り抜け、えりも岬へと向かう。
 浦河の街中もすっかり変わった。

 昔は、主だった店は高杉デパートという2階建てのデパートぐらいしかなかったのに(そのデパートは消滅していた)、こぎれいな店が規則正しく並んでいる。道路の拡幅か何かで再開発したのだろう。再開発というのはオーバーだけど……

 怪獣映画を観に行った大黒座はまだやっているというが、その映画館を見には行かなかった。
 国道沿いに“三栄堂”の看板を発見。懐かしい名前だ。
 電器店で、ビクターの店だった。ウチは冷蔵庫もカラーテレビも、その他電気製品はいつもここで買っていた。今の“三栄堂”にはSONYの看板があがっていた。

 街を抜け、途中天馬街道を走ってAERUまで行き、再び国道に戻り、様似に入る。
 ここで、車に異変。
 低速走行時に、ノッキングのような状態を起こしたのだ。
 最初は地震でも起きたのだろうかと思った
 タコメーターを見ると、1000~1300回転の間を針がウネウネと上下している。
 アクセルを踏み込むと治ったが、こういう状態になると、えりも岬まで行って大丈夫かと不安になる。

 でも、ここではどうしようもない。
 かつて何度か登ったアポイ岳を左に見、さらに走り続ける。

 国道から岬へ向かう道に入る。
 やがて、はげ山のような丘の中を走るようになる。
 ここで車が止まったら、JAFはどこから派遣されてくるのだろう、と思う。

3f934a9f.jpg  岬には予想以上に観光客が来ていた。
 私がえりも岬を訪れるのは3回目だが、こんなに風がないのは初めてだ。

 えりも岬は、ほんとうに岬らしい景観をもっている。
 沖の方へ連なっている岩が、“先”にいるという感じをもたらす。
 森進一の歌がわざとらしくそこいらに流れていなくてよかった……

 ウニ丼を食べたそうにしている妻を無視して(だってまだ10時)、Uターン。
 浦河の方へ戻る。
 ……この話、しつこくあと1回続く。

 朝、1人で街中を巡回しながら、そしてミズバショウを目にしたり、絵笛の牧場風景を見たときに、頭のなかに流れてきた音楽は、ヴォーン=ウィリアムズ(Ralph Vaughan Williams 1872-1958 イギリス)のロマンス「揚げひばり(The lark ascending)」(1914-20)だった。
 もちろん、ヒバリのから揚げのことではない(前日の夜、“旨や”で鶏のから揚げは食べたけど)。

d9f3fb0f.jpg  独奏ヴァイオリンとオーケストラのためのこの作品は、19世紀の小説家であり詩人だったジョージ・メレディスの詩「揚げひばり」を音楽的に解釈しようとしたもの。
 メレディスの原詩が楽譜にも記されている。

 《ひばりは空に舞い上がり、輪を描き始める。ひばりはとぎれることのない多くの環のある、銀の鎖のような音をしたたり落とす……》

 あぁ、このしっとり感……
 甘酸っぱいような私の気持ち、記憶と目の前の現実とのギャップに何となく合う。

 私が聴いているCDはマリナー指揮アカデミー室内管弦楽団(ザ・アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ)、ヴァイオリン独奏がアイオナ・ブラウンによる演奏のもの。
 1972年録音。デッカ(ロンドン)。
 他の収録曲はすべてV=ウィリアムズの作品で、「タリスの主題による変奏曲」「グリーンスリーヴズによる幻想曲」「『富める人とラザロ』の5つの異版」。
 この国内盤は現在廃盤。

 浦河はもちろん父の転勤で住むことになった町だ。
 その父は1年前に亡くなっている。
 そういった思い出を求めに、あるいは父との思い出をふっ切るために、今回浦河に行こうと思ったのではない(だいたいにして、父との思い出なんてあまりないのだ)。
 しかし、町の変わりっぷりを見て、間違いなく年月が経っていることを思い知らされた感がある。
 もう、全然知らない街になっていた。