いつものように今朝も5時前に起き(正しくは、体力不足で眼が覚めてしまい)、慣例に従ってブログをアップしようと思ったら、グワショォォォ~ッ、“メンテナンス中”の文字。
その終了予定時間は7時。
私は、「12時のお昼休みまでは机でお弁当を食べてはいけません」という会社の厳しい掟を守る、忠実な社員のように我慢せざるを得なくなった。
だから今日は先に朝食を食べ(10時頃には空腹にあるだろう)、「夏の間において私の家の庭で今日の朝になって咲いていたバラの花の写真を撮影するために」(英文の直訳風)、外へ出た。 おぉ、グラハム・トーマスも(上)、ピエール・ドゥ・ロンサールも、ヨハン・シュトラウスも(下)、ニコルも、それ以外もどどんがどんと咲きだした。
そのあと水まきをする。
お寝坊さんのお隣さんは、今日は雨だと勘違いしちゃったかしら。うふっ。 ← それにしても実に近所迷惑な男だ。私は。
散水が嬉しいのだろうか、どこからか小さなカエルが飛び跳ねて来て、芝生をあっという間に横切る。小さなカエルでもあっという間に横切れるほど狭い芝生なのだ。
§
作曲者は特に夏をイメージしたわけでも何でもないだろうが、私はこの曲に夏のイメージを感じる。
えっ?そんなことないって?
そうかもしれないけど、人によっては苦痛になりかねないこの流れも、夏の暑さをじっと耐えるのに通ずるものがあるような気も、ちょっとだけする。
いったい何の曲かって?
すいません。
そうでした、そうでした。
ブルックナー(Anton Bruckner 1824-96 オーストリア)の交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック(Romantische)」WAB.104のことである。
ブルックナーの交響曲の中では最も親しまれている作品。その要因としては演奏時間の長さもまだ我慢できるってことがあるのだろう。
そう、ブルックナーなのだ。
ドイツの夏、ロリコンの夏、あぁ水着少女……(書いていて恥ずかしくなってきた)
でもこう書いてきて、この曲、ふと、“秋”ってイメージと感じないこともないな、とも思えてきた。
あぁ、ブルックナーのように優柔不断な私。
だって迷っちゃうんですもの……(危ない危ない。なぜかブルックナーのことを書くとオカマ言葉になりかける私)。
作曲年は1874年。
ブルックナーの“直し癖”のせいで、この曲も改訂が何度も行なわれており、第2稿は1878。第3稿は1879~'80年。第4稿は1886年である。
この交響曲は各楽章に中世ロマネスク時代へのあこがれを示す標題的内容があるとし、ブルックナー自身が「ロマンティック」と名づけた。
まるで「あのさ、ボクってロマンティストなんだ」と、聞いてもいないのに自ら訴えるヒトに似ている。
ブルックナーが自ら標題をつけた交響曲はこの第4番のみ。
また、第00番、第0番、第1~3番と、それまで交響曲は短調で書かれてきたのだが、この4番でブルックナーは初めて長調の交響曲を書いた。
“中世ロマネスク時代へのあこがれ”と言われても、はてさて何のことやらって感じであるが、ドイツの森林で感じる自然に対する神秘的な思いを表現したという。
私とブルックナーとの出会いも、この作品によってだった。
その劇的でも何でもないいきさつは前に書いたとおりである。
村上春樹は「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の中で、主人公の“私”に、《ブルックナーのシンフォニーの番号なんてまず誰にもわからない」と言わせているが、それは言いすぎ。
ブルックナー・ファンならずとも、クラシック音楽ファンの少なからず人はちょっとから完璧の範囲内でわかるはずである。
私はといえば、「まかせとき」と胸は張れないが、ビミョーにはわかるつもり。苦手な番号のものがあるのが胸を張れない理由だ。
ただ、第4番の交響曲は間違いなくわかる。
第6番も第8番も完璧にわかる。
2番は不安。
ブルックナーを知ってすぐのころ、FMで彼の交響曲第8番が放送されるのを知りエアチェックを試みたことがある。
私は60分のカセットテープをラジカセ(ステレオラジカセじゃなくて、単なるラジカセ)に入れた。
途中でテープが足りなくなった。
だって、そんなに長い曲だって全然知らなかったんだもん。
当時はまだFM誌も買ってなかったし……
ということで、ブルックナーにはそのときのFUJIの安いテープ(当時の札幌市民生協西野店で、このテープは1本290円で売られていた。この値段は他のもの、例えばTDKのADなど、に比べるとかなり安かった)の、品のない赤いラベルの姿が結びついている。
ところで“ロマンティック”って言葉はよく使われる ― 例えば、「MUUSANの容姿ってロマンティックね」というように ― が、ロマンティックというのは“夢のような”という意味だ。したがって、この例文を正しく訳すと、「MUUSANの容姿って実体がないのね」ってことになる。
あるいは、「MUUSANの書いてることってロマンティックね」という場合、このロマンティックの意味は“非現実的”という意味だ。
他にもある。「MUUSANが昼食を選ぶときの姿勢ってロマンティックね」という場合の意味は“情熱的”である。つまりハラペコ・ブッチ状態だ。端的にいえばがっついているということになる。
空想家のことはロマンティストというが、ロマンティシストともいう。
パフォーマンスする人のことをパフォーマーというが、だからといって先日アイゼンシュタイン氏がそういう人のことを話そうとしてパフォーマンシストと言っていたのは、おそらくウソ英語だ。
で、作曲者本人が「ロマンティック」とした副題は、たぶん“夢のような”って感覚なんだろう。
“ロマンティック”と最初からいわれているので、あぁ確かにロマンティックな作品だと自分が思い込んでしまっている面は否定できないが、ロマンティックってけっこうと漠然としている概念だ。
ブルックナーの交響曲って、響きやメロディーが地味なようなイメージもあるが、その実、SFの宇宙映画のテーマに使えそうなけっこう過激な側面も持っている。
交響曲第3番の出だしなんかはウルトラマン・シリーズのオープニングに使えそうだし、第7番の第3楽章なんて宇宙戦争のシーンに合いそうだ。
第4番だって、「狩り」のイメージという第3楽章は、ウソの解説をされれば美しい星・地球を発見して喜び勇んで総進撃しようとするナニュメ星人の「歓喜の急襲のテーマ」のようだし、第1楽章冒頭だってロマンティックなことは確かだが、久しぶりに好天に恵まれて穏やか極まりない火星北部にある砂漠の俯瞰シーンに付けたとしても違和感はないだろう。
ばかなたわ言はさておき、第4番第1楽章冒頭からの聴き手を包み込むような霧のようなトレモロ(トレードマークとなっているこの“ブルックナー開始”であるが、弦楽全部によるトレモロはこの曲のみ)と、ホルンによる伸びやかな呼びかけによって、私たちは神がお創りになられた偉大なる自然を賛美する世界へと引き込まれる。
そうすべては神の思し召し。
そう、自然を表現するにしてもブルックナーの場合は、静止画像とまでは言わないが、蟻が動き回っているのに気づかないくらい雄大なイメージの描写で、そこがマーラーとはちょっと違う。
京急と都営地下鉄でさえ行なっている相互乗り入れが、マーラーとブルックナーの愛好者の間ではなかなかうまくいかないのは、こういうところが理由としてあるのだろう。
もちろん両方好きな愛好家もいるし、なかには両者の作品の区別ができない人もいるだろうけど……
CDは、以前ブロムシュテット盤を紹介したので、今日は意表をついて(?)マズア/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団による演奏のものを。
1975年録音。DENON。
ただし、録音はドイツ・シェルプラッテンで、ここの特徴である厚みのある響きがブルックナーにとっても合っている。
マズアの演奏自体も、張り切りすぎない素朴なブルックナーって感じで、ブルックナーの音楽を美化しすぎていないところが感じいいなって思っている。
現在廃盤。
この交響曲第4番、第1楽章の主題が重苦しく回顧されて進行する第4楽章になると、ちょっぴり様相が変わってくる。
この感動ははまる人には応えれねーぜってくらい大きいが、相性が悪い人にとっては早く終わってくれよってくらい辛いものになる。
特に体調がすぐれないときは要注意だ。