76c811bf.jpg  年齢を重ねるごとに1年1年が短く感じるようになる感覚は、多くの人が実感していることだろう(1センテンスに“感”が3つ。くどい)。

 でも、地球の公転周期は変化していない。
 少なくとも私には、地球の公転周期が短くなってんですのよ、という井戸端会議連盟からの報告はない。

 じゃあなんで?
 その理由として、たとえば、10歳のときの1年は人生の中で1/10の長さだが、40歳のときの1年は1/40の長さになるわけだから、分数を理解できる人もできない人でも、とにかく分母が大きくなればなるほど短く感じるのだ、というのがある。

 私が名づけるに、年齢実感相対性理論である。
 この説、説得力がある。
 分子を365にして、分母を365日×年数にしても同様の結果が得られるところが、実に理論的である。もっと言えば、うるう年を計算に入れると、より精度の高い感覚値が導き出されるのである。

 すごいではないか。

 たとえば、今年の私の1年はこれまでの人生の中で2.857%のウエイトなのかと、予測することも容易である。元旦の習慣にすると楽しいかもしれない。

 でも、いま一歩、間違いなくそうだとも言いきれない。
 そこがこの“年齢実感相対性理論”の弱みである。
 科学的なのに科学的でない。
 これに生きざま要素を加味できる補正係数が発見できれば少しはまともになるのだが……

 ぼけ老人の場合はどうなんだろう?
 81歳のときと82歳のときでは、やはり「年々1年が速く感じる」とばかり、82歳のときの方が速く過ぎ去るのだろうか?それとも、ぼけると時間の概念は銀河系級になるのだろうか?
 うん。補正係数は永遠に導けそうにない。

 そんなことを考えながら、「若き日の歌(Lieder und Gesange aus der Jungendzeit)」を聴く。

 マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)が書いた歌曲集で、全部で14曲から成る。なお、原題からすれば、一般的な邦題である「若き日の歌」ではなく、「若き日のリートと歌」という方がより近い。

 作曲年は、第1~5曲は1880年から83年にかけて、第6~14曲は1887年から91年にかけて。

 歌詞は、第6~14曲は「子どもの不思議な角笛」からとられているが、第1~2曲はR.レアンダー、第3曲は伝承によって作曲者、第4~5曲はスペインの詩人T.de.モリナの「ドン・ファン」からL.ブラウンフェルスが訳したものが用いられている。

 この歌曲集の初版は1892年に3冊に分けて出版されており、そのときのタイトルもただの「歌曲集」であった。
 「若き日の」というタイトルは、マーラーの死後に再版された際に出版社によってつけられたものである。おそらく彼の「最後の7つの歌」(1899,1901,1902。この7曲のうち、第3~7曲を「5つのリュッケルトの歌」と呼ぶ)と対となるように、こうつけたのだろう。
 近年になって、出版の際、原題である「歌曲集」を尊重する動きがある。

 各曲のタイトルは以下の通り。

 1. 春の朝 Fruhlingsmorgen
 2. 思い出 Erinnerung
 3. ハンスとグレーテ Hans und Grete
 4. ドン・ファンのセレナード Serenade aus Don Juan
 5. ドン・ファンの幻想 Phantasie aus Don Juan
 6. いたずらな子をしつけるために Um schlimme Kinder artig zu machen
 7. 私は緑の森を楽しく歩いた Ich ging mit Lust durch einen grunen Wald
 8. 外へ、外へ Aus! Aus!
 9. たくましい想像力 Starke Einbildungskraft
 10. シュトラスブルクの砦に Zu Strassburg auf der Schanz'
 11. 夏に小鳥はかわり Ablosung im Sommer
 12. 別離と忌避 Scheiden und Meiden
 13. もう会えない Nicht wiedersehen!
 14. うぬぼれ Selbstgefuhl

 このうち、第3曲「ハンスとグレーテ」(この曲のもととなったのは「草原の5月の踊り」という歌曲)のモチーフは、交響曲第1番の第2楽章で使われていることは前に書いた

 さて、今日書いておきたいことは、第11曲「夏に小鳥はかわり」。
 季節の移り変わりによって、自然の歌い手の交代を歌っている。
 つまり、カッコウが死んで、夜鳴きうぐいす(ナイチンゲール)が登場するのである。

 歌詞は、

 カッコウが斃(たお)れ、斃れて死んで落っこちた。
 緑おりなす牧場の隅で、牧場で死んだ!
 カッコウが死んだ! カッコウが斃れて死んだ!
 いったい誰が、この夏 ぼくらの暇を
 潰し、憂さを晴らしてくれるのだろう。
 カッコー! カッコー!

 そうだ! ナイチンゲールに代わってもらおう。
 緑なす枝にとまっているあのご夫人に!
 ちいさな姿で上品な あのナイチンゲール夫人、
 かわいらしくて愛嬌たっぷりなナイチンゲールに!
 あの夫人なら歌いもすれば躍りもするし、
 ほかの鳥が黙っているときでも賑やかだ。

 ぼくらはみんな 楽しみにして待っている、
 緑おおう生垣に棲みついているナイチンゲールを!
 こうして、カッコウが最期を遂げると、いつも
 ナイチンゲールが羽ばたき啼(な)きはじめることになる!
     (歌詞邦訳は長木誠司「マーラー全作品解説事典」音楽之友社による)

というもので、曲の長さは2分もない。

 しかし、この短い曲のメロディーは、交響曲第3番の第3楽章に転用されているのである。

 改訂によって削除されてしまったが、交響曲第3番の第3楽章にかつて付けられていたタイトルは「森の動物たちがわたしにかたること」。
 この楽章の背景に、上の歌曲がもつストーリーが関連するということは(まったくないとは言えないはずだ)興味深い。

 ここで紹介するCDは、ツィザークのメゾソプラノ、ガッティ指揮ロイヤル・フィルのもの。交響曲第4番の余白に、この歌曲集の第7、9、11、13曲の4曲が収められている。オーケストレーションはデイヴィッド・マテウスとコリン・マテウスによるもの。
 1999年録音。BMG-CLASSICS。
 ただし現在廃盤。

 一応念のために、そしてこういう余計な説明は最後にしようとは思うが、CDの写真の人物はガッティであり、マーラーではない。

 それにしても、マーラー、第1交響曲ではカッコウをあんなに大切にしておいて、ここでは平気で死なせるなんて(詩はマーラー作じゃないけど、こういう詩を採用して)、あなたって冷たいのね。

 でも、いかにもマーラーっぽいよなぁ。