マンドリンの音というのは、実に物悲しい。私はそう感じる。
加えて、マンドリンという言葉を聞くと、手塚治虫のジャングル大帝に出てきていたマンドリルを連想してしまう。私は。
これはどう考えても文明開化的な連想とは言えない。
私が通っていた高校にはマンドリン部があった。
たぶん、少なからずの高校や大学でマンドリン部というのがあったと思う。私の中学時代の友人の1人は、大学に入学したあと(私とは別の大学)で、マンドリン部に入ったと言っていた。およそ音楽に縁があるとは思えないような人物だったので驚いたが、数か月後にあったときにはマンドリンの魅力についてとうとうと語っていた。まだ東陶のウォシュレットが一般化する前の頃の話である。関係ないことだけど……
最近は中学や高校では吹奏楽が盛んだが、今でもマンドリン部は盛んなのだろうか?
マンドリンはイタリア生まれの撥弦楽器である。
ギターと同じように持続音が出せない。そこで持続音に似せたトレモロ奏法が使われる。
そのマンドリンを交響曲に用いたのがマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)である。
交響曲第7番から始まり第8番、「大地の歌」(実際には9番目の交響曲にあたる)の連続する3つの交響曲の編成にマンドリンを加えている。
最初は第7交響曲の第4楽章(5つの楽章からなるこの交響曲の2つ目の夜想曲にあたる)。マンドリンとともにギターも加わる。
次は第8交響曲。その第2部でマンドリンが使われる。
そして9番目の交響曲にあたる「大地の歌」。第4楽章と第6楽章でマンドリンが鳴る。
イタリア生まれのマンドリンが、ここでは東洋の楽器である“琴”の音の代用のように使われるが、実際東洋風に聴こえてくるのが不思議だ。
さて、その「大地の歌(Das Lied von der Erde)」(1908-09)。
連作歌曲の形もとっているこの曲は、しかしながらマーラー自身がタイトルに「交響曲」という言葉を使っている(なお、6つもの楽章を持つ交響曲としては、マーラーは第3番ですでにそれを行なっている)。
作曲家の諸井誠氏は『音楽の聴きどころ「交響曲」』(音楽之友社)で、「大地の歌」の第3~5楽章を1つにくくってみると三部形式のスケルツォ楽章のようになり、この交響曲が4楽章からなるように見なすことでできると書いている(柴田南雄氏は別な見解を示している)。
「大地の歌」はアルト(またはバリトン)とテノールの独唱によって、ヘンス・ベドゲの独語訳による中国の漢詩が歌われていくが、アルトとテノールが1つの楽章内で共に歌われることはない。また、6つの楽章は急‐緩‐急‐緩‐急‐緩と規則正しく配列されており、速い楽章がテノールで、緩徐楽章がアルトによって歌われる。全曲の演奏時間は60分だが、そのうち第6楽章が半分の長さを占める。
ベドゲがドイツ語に訳した詩集「中国の笛」は、文学的には2流どころかそれ以下ということだが、終楽章の最後の部分はそれでも感動的である。
友よ、
現世は我に幸を恵まざりき!
我いずこに行くとや?我は山に行かん。
我が孤独なる心に憩いを与えん。
故郷を、我が住家を求めてさまよわん。
なれど遠国には行かざるべし。
我が心は静かにして、その時の来るを待つ。
いとしきこの大地に春来りていずこにも花咲き、
緑新たなり!遠き果てまで、いずこにも、とこしえに青き光!
とこしえに…とこしえに…
(渡辺護 訳(ショルティ/シカゴ響のCD解説より))
第6楽章「告別」には、2人の男が現れる。これから去ろうという男。それを見送る男(琴を手にしている)。
音楽は見送る方の男の歌で進み、管弦楽だけによる展開部の後、これから去って行こうという男現れる(アルト(もしくはバリトン)歌手は2人の役を歌い分けることになる)。
見送る側の待っていた男が、「どこに行くんだ?なぜの別れなんだ?」と尋ねたところで、去っていく男が答えるのが上の歌詞である。
“自分がどのような状態にあろうとも、毎年春になればこの大地には花が咲き、新芽が萌える、永遠に”という内容だ。
その背後、ewig(とこしえに)という歌に合わせて、かすかに聴こえてくるのがマンドリンの調べである。
「大地の歌」ではテノールは固定だが、もう1つの歌手はアルトかバリトンのどちらでもよいことになっている。そして、実際の演奏(録音)では、圧倒的にアルトを起用したものが多い。おそらく声質の対比によって、演奏効果を上げるためと思われる。
名盤と言われている、バーンスタインがウィーン・フィルを振った演奏では、キング(T)とF-ディースカウ(Br)という2人の男声を起用している(1966録音)。
私は少なくとも終楽章だけを見た場合は、ここは男声(バリトン)で歌う方が歌詞の内容と合っていると思っている。
男同士の別れの場面である。
女声ではしっくりこないと思うのだ。
最近知った演奏では、ラトルがバーミンガム市交響楽団を振った演奏が、歌手にザイフェルト(T)、ハンプソン(Br)を起用しており、演奏自体、非常に精緻で美しい。
先に書いたバーンスタイン盤も持っているが、私は総体的に評価が高いバーンスタインのマーラーに、共感を覚えることがそう多くはない。
その点で、ラトル盤に出会えたのはとてもうれしい。
ラトル盤は1995録音。EMI。
さて、「大地の歌」の各楽章のタイトルと、原詩の作者は次の通りである。
第1楽章 「大地の哀愁を歌う酒の歌」 李白
第2楽章 「秋に寂しき者」 銭起
第3楽章 「青春について」 李白
第4楽章 「美について」 李白
第5楽章 「春に酔える者」李白
第6楽章 「告別」 前半:孟浩然、後半:王維
諸井誠氏が第3~5楽章をひとまとめに考える根拠の1つには、この3つの楽章が李白の原詩によるということがある。
また、第2楽章の原詩は銭起と考えられてきたが、張籍あるいは張継であるという説もある。
終楽章については、ベドゲのドイツ語訳は原詩に忠実だというが、マーラーは2つの詩を結合、改変している。
関心はないでしょうが、私が生演奏で聴いたことがないマーラーの交響曲が、この「大地の歌」、そして第10交響曲(クックなどによる全曲完成版)の2曲である。
