9b6f178f.jpg  グリンカはロシアで最初の音楽家である。
 彼が2つのオペラ、「皇帝に捧げた命」と「ルスランとリュドミラ」を作曲したことで、ロシア国民楽派の始祖となったのであった。

 それ以前のロシアでは、音楽界はイタリア人によって支配されており、オペラといえばイタリア・オペラであった。

 みなさんは、グリンカ以前のロシアの作曲家の名前を言えるだろうか?(「言えない」という答えを期待している)。

 私は言えない。それ以前のロシアの作曲家を知らない。
 そのグリンカにしても、「皇帝に捧げた命」の前は、ヨーロッパの影響を受けた、傑作とは言い難い作品しか書いていなかった。

 ところで、音楽における民族主義とは何か?
 H.C.ショーンバーグは「大作曲家の生涯」(共同通信社)のなかで、こう述べている。

 音楽における民族主義とは、民族音楽を意識的に利用することであり、―(中略)―ワーグナーはあらゆる作曲家の中で最もゲルマン的だが、ドイツ民族音楽の遺産を引き継いでいないがゆえに、国民音楽の作曲家ではない。たとえ作曲家が時折、民族的要素を用いた小品を書いたとしても、それだけでは必ずしも国民楽派とは言いがたい。

 音楽における民族主義は、民族音楽を表面的になぞったものではない。それは民族的精神、国民の歌と踊り、宗教的音楽を呼び起こすものである。真の国民楽派にとって、素材を直接引用することは必要ではなく、彼の全身にメロス(音楽)が充満している以上、その作品は常に祖国の音楽たらざるをえない。

 ショパンとリストは、いずれも真の意味の国民楽派ではなかったが、ショパンはマズルカとポロネーズで、リストは狂詩曲で、その道を指し示した。ロシアで地鳴りが始まった時、同国の音楽家の大半が師として仰いだのはショパンとリストであり、アカデミックな作曲家たちではなかった。ドイツやオーストリアの音楽院による「支配」に対抗する自由を、ショパンとリストは代表した。そしてロシア国民楽派は規則を憎んだ。

 ヨーロッパのなかで初めて民族主義の音楽を作り上げたのがロシアの作曲家であり、その口火を切ったのがグリンカだったわけである。その後、“ロシア5人組”が生まれる。

 そのグリンカが書いた、「カマリンスカヤ(Kamarinskaya)」(1848)。「ロシアの踊りの歌の主題によるスケルツォ」という副題がついている。
 カマリンスカヤというのは、このスケルツォ作品の主題に用いられた民謡の踊りの名前である。
 「カマリンスカヤ」は、ロシア的旋律の管弦楽的処理の一つの典型を作った曲として重要とされており、H.C.ショーンバーグは先の本のなかでこう書いている。

 (「カマリンスカヤ」は)ロシア民謡をテーマとする作品で、ロシアの音楽家が、その後50年間にわたり管弦楽曲の手本と仰いだ曲である。

 チャイコフスキーはこう書いた。「樫の木がドングリから育つように、ロシアの音楽はすべて『カマリンスカヤ』に始まる……。ロシアの作曲家は誰でも(私自身を含め)、ロシア舞踊の調べを採り入れる時には『カマリンスカヤ』の対位法的、和声的コンビネーションを用いている」と。

917fea53.jpg  私が持っているCDは先日も取り上げたチェクナヴォリアン指揮アルメニア・フィルの演奏によるもの。1996録音。ブリリアント・クラシックス(ASV、UKとのライセンス)。

 なお、このCDには何曲ものロシアの作曲家の作品が収められているが、グラズノフ(Aleksandr Konstantinovich Glazunov 1865-1936 ロシア)の交響詩「ステンカ・ラージン(Stenka Razin)」Op.13(1885)も収録されている。
 この交響詩は、出版の際にボロディンの追悼のために捧げられたが、曲の開始があの「ヴォルガの舟歌」のメロディーなのである。「えーこら、えーこら、もひとつ、えーこら」ってやつだ(掲載譜。北川剛編「ロシヤ民謡アルバム」:音楽之友社から転載)。そのために、すごく親しみを感じる(のは私だけに固有の現象だろうか?)。
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 ところで、ドストエフスキー。

 私が新潮文庫の「罪と罰」を読んだのは、光文社古典新訳文庫の「カラマーゾフの兄弟」を全巻読み終えたあと、すぐにだった。それだけ「カラマーゾフ」にやられてしまったのだろう。

 それにしても、登場人物の把握さえむずかしいロシア物を、よく立て続けに読んだものだと、我ながら感心してしまう。
 いま、本を開いてみたら、お手製の“登場人物一覧表”がはさまっていた。
 私って、することがちょっとかわいい……

 「罪と罰」は1866年の作品で、「カラマーゾフ」よりも10年以上前に書かれた。
 しかし、その激しく、いまの私たちからすれば狂気的ですらある内容は「カラマーゾフ」に劣らず、魅力的である。

 ストーリーを新潮文庫の裏表紙から転載すると、

 鋭敏な頭脳を持つ貧しい大学生ラスコーリニコフは、一つの微細な罪悪は百の善行に償われるという理論もとに、強欲非道な高利貸の老婆を殺害し、その財産を有効に転用しようと企てるが、偶然その場に来合せたその妹まで殺してしまう。この予期しなかった第二の殺人が、ラスコーリニコフの心に重くのしかかり、彼は罪の意識におびえるみじめな自分を発見しなければならなかった。
 そんなラスコーリニコフは、偶然知り合った娼婦ソーニャの自己犠牲に徹した生き方に打たれ、ついに自らを法の手にゆだねる。


 なお「罪と罰」は、現在光文社古典新訳文庫からも出ている。
 これを読んでみたい気がしてきている。