6adb35c4.jpg  ニコルソン・ベイカーの「中二階」(白水uブックス)は、日常のごくふつうのできごとをとことん考察する、ちょっと変わった小説だ。

 例えば、

 その頃から私はすでに、女性のヌード写真が売り物の雑誌をせっせと買うようになっていて、そういう雑誌を買うときには、個人経営の商店ではなく、できるだけ新しい無個性なコンビニエンス・ストアを選び、それも近所の何軒かでローテーションを組むようにしていた。レジにはときどき意地の悪い奴がいて、例の「袋に入れましょうか?」というセリフを、さも無邪気な風を装って、「それにも袋が要りますか?」などと歪めたニュアンスで言った。そうなると、こちらの取るべき道は二つ――屈辱に甘んじて黙ってうなずくか、男らしくきっぱりとノーと言い、むき出しのヌード雑誌をくるくる丸め、裏表紙の煙草の懸賞広告(“低タールならカールトン”)が表になるように自転車のかごに放り込むか、だ。 (p.8)

とか、

 コートをはおったところで、デオドラントをつけるのを忘れていたことに気がついた。これでは一からやり直しだ。私は、もう一度ベルトをはずし、シャツをズボンから出し、Tシャツをパンツから引き出す必要性を頭の中で秤にかけた。そうまでしてでもやるべきだろうか?すでに遅刻寸前だった。
 そのとき、私は発見をしたのだ。まずひらめいたのは、アングルの筆になるナポレオンの肖像だった。私はネクタイを脇に寄せ、真ん中のボタンを一個だけはずした。そう、腋の下に手を届かせるのに、何も服を脱ぐ必要はなかったのだ。ボタンを一個だけはずした隙間から制汗剤のスティックを差し入れ、Tシャツとワイシャツのあいだをかき分けながら胸郭の上を進んでいき、Tシャツの袖に指をひっかけて肩の上まで引き上げ、処置を要する部位を露出させればいい。私はバルボアかコペルニクスにでもなった気分だった。学生の頃、女の子たちがトレーナーを脱がずにブラをはずすのを見て感嘆したことがあった。彼女たちは、まず服の布地の上から背中のホックをはずし、片方の袖をうんと上までたくし上げて肩ひもを腕から抜き、それからしばらく肩をもぞもぞと悩ましげに動かした後で、反対側の袖口から、のたくるようなそれを事もなげに引き抜いた。私のデオドラント・スティックの発見は、このブラはずしのテクニックと、まるで位相が逆転するような感覚において共通するものがあった。
 私は満ち足りた気分で地下鉄の駅に向かった。
 (p.69)

 この小説(原題:The Mezzanine)はベイカーが1988年に発表した処女作。

 このように、着想がちょっと並ではないし、描写がうまい。
 誰でも日常生活の中で同じような経験や思いをしているようなことを、実にこと細かく、ユニークな視点で書いている。こういう表現、私はものすごく好きだ。
 そしてまた、この小説の面白さが伝わってくるのは、岸本佐知子さんの訳によるところが大きい。

 この小説、昼休みの直前に靴ひもが切れてしまった主人公が、昼食ついでに靴ひもを買い、そのあとオフィスのある中二階に戻るのだが、その戻るときにエスカレーターに乗り、中二階でエスカレーターを降りる、その間に主人公の頭の中によぎったことを、このようにくどくど、延々と書いているのだ。
 おもしろい。笑える。

 また、さらにはご丁寧に多くの注釈も添えられていて、これまた楽しさに深みを与えてくれる。

 この本のなかから、さらに1箇所。

499e845d.jpg  ワーグナーの楽劇みたいな角帽をかぶった血色のいいメゾソプラノのキャンプ指導員が、ルピナス咲く野原に車座になり、牛乳を大きな鉢で何杯も何杯も飲んでいるそばからもう、膝小僧や頬骨がむくむくと膨れていく――。

 私はワーグナー(Richard Wagner 1813-83 ドイツ)の楽劇も歌劇も、全曲を通して聴いたことがある作品は1つもない。
 なぜかそういう機会を得ることはなかった(得ることがあったとしても、おそらくは断っただろう)。

 そんな私だが、今日は楽劇「神々の黄昏(Gotterdammerung)」(1876初演)のなかかから、「ブリュンヒルデの告別の歌『ラインの岸にたき木の山を積み』(ブリュンヒルデの自己犠牲)」(*1)。
 プロローグと3幕から成るこの楽劇の第3幕で、ブリュンヒルデ(残念ながらメゾソプラノではなく、ソプラノが担う)が歌う歌である。

 「神々の黄昏」は、楽劇「ニーベルングの指輪」という、4つの楽劇から構成されるウルトラ作品(だって、巨大おむすびの具が、普通サイズの鮭おにぎりと焼きたらこおにぎりと昆布おにぎりと梅かつおおにぎりであるかのようだ)の第3日目(最終日)に上演されるもの。
 ちなみに、前夜劇が「ラインの黄金」、第1日目が「ワルキューレ」、第2日目が「ジークフリート」、そして第3日目が「神々の黄昏」ということで、相当体力があるか、自分を取り巻く環境に無関心であるあるか、痔を患ってないか、他にすることがなくてやけっぱちになっている人じゃないと、通しでは聴けないだろう。

 ということで、ストーリーもここでは省略。
 間違いなく言えることは、「ブリュンヒルデの自己犠牲」は、キャンプ・ファイヤーのためにたき木を積み上げるという内容ではないということだ。

 CDはジェシー・ノーマンのソプラノ、テンシュテット指揮ロンドン・フィルによる演奏のものを。
 このCD、「ワーグナーの真髄」なるタイトルの名曲集。
 こういう名曲集って、私はあまり好まないのだが(全曲盤を買えばいいじゃん!それが真髄よ!)、ワーグナーに関してはこういうの、ちょっぴりありがたく思ったりする。
 1987録音。EMI。

 ニコルソン・ベイカーの名前は、村上春樹の「村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた」(新潮文庫)にちらっとでてくる。

 沢山作家が集まるとやはりそれぞれに個性があって、ジャメイカ・キンケイドはいちばん飄々(ひょうひょう)として不思議で、ニコルソン・ベイカーは飛び抜けて背が高くていちばん人当たりがよく(近作『フェルマータ』がとくに女性読者から袋叩きにあっていて、それで緊張していたのかもしれないが)、…… (p.50)

 「うずまき猫のみつけかた」は、村上春樹がアメリカのケンブリッジに住んでいた1993年から'95年にかけての滞在記である。

 *1 Brunnhildes Schlussgesang 'Starke Scheite schichtet mir dort'(Brunnhilde's immolation)