d9b12e93.jpg   先週歯医者に行った。

 すでに読者の方々は熟知しているように、私の左下の犬歯が虫歯になりかけていたのだ。
 私は驚いた。この歯がまだ、天然成分由来の、つまりは自分の歯だったことに。これはとっくに人工の歯にとって代わられていたと思いこんでいたのだ。

 「MUUSAN、表面を少し削りますが、少し痛いと思います。痛かったら教えてください」と、医師が多少矛盾めいたことを言う。もちろん、この歯科医、実際には私のことをMUUSANなどとは呼ばない。

 キュュュゥ~ンたらウンウンゥン、キュィ~ンキュゥゥゥ~というドリルの音。
 歯の上部に運河を建設するかのように、筋が作られていく。
 もちろん目をつぶって口を開けておくしか能がないこの状況下の私には、そのような軌跡が描かれているなんて知りようがない。事前に医師がそのように言っていただけだ。落書きされていても気づかないだろう。

 時折、グニュッという痛みが走る。
 強く目をつぶる。当然、私の瞼が年老いた梅干のようになっているのが、医師には見えてるはずだ。なぜなら、今、私と医師とは、下手な恋人同士よりも顔を寄せ合っているのだし、医師がマスクをかけているのは口であって、目ではないからだ。

 でも、彼はドリルの回転数を落とそうとしない。
 ほらね。そんなもんなんだよ。痛ければ教えてくださいなんて甘い言葉を言っておきながら、本番になったら私が痛みに顔をゆがめようと何しようと、手を緩めようとはしない。唯一ここで彼の攻撃を止め得る方法は、口を閉じることだが、恐らくは口の中が血だらけになって、舌にピアスを着けられるような体になってしまいそうなので、それはできない。

 苦痛と不安が混然一体となった時間が終わり、医師が、ちょっとかわいらしいが場にそぐわない髪色に染めている衛生士に「鏡を持ってきて」と命じる。何かと思ったら、私にその手鏡で「今削った所を見てみてください」と医師が言う。
 ほほぅ。その昔世界史の教科書に載っていたどこかの遺跡の下水溝のように、それは削られていた。

 ここで、さりげない営業が始まる。
 「MUUSAN、どうですか、ここは見えやすいところです。保険内で治療すると銀色のものを詰めることになりますが、保険外なら白くすることができます」
 すぐに保険外治療における額を言わないところがテクニシャンである。
 「では、保険外ではいくらぐらいで?」
 「そうですね。3万円ほどでしょうか」
 「私の口元は3万ほどの価値もないものです。保険でお願いします」

 衛生士がアハハと笑った。ウケてちょっぴり嬉しかったが、彼女が私のこの控えめな卑下を「そのとおり、まったくだ」と思っているとしたら、ちょっと問題である。
 そのあと型を取ったのだが、この衛生士、笑った余韻で手元が震えたのか、型の取り直しとなってしまった。やれやれ……
 まあ、ともかく、その歯の隣の奥歯が思いっきり銀ギンしているのだから、無駄ななのだ。白は。

 治療が終わり、トイレを使った。
 おっ、なんということでしょう。
 予備のトイレットペーパーの側面に、英和辞典のA、B、C……よろしく、ここの歯科医院名のゴム印が押されているではないか。しかもご丁寧にしつこく2カ所。

 この歯科医院はビルの1階に入っているが、独立している。つまりトイレが他の入居施設と供用というわけではない。それなのに、これはどういう意味なのか?
 患者がこっそり持ち帰るのを防ぐためか?あるいは、衛生士などが盗み出すのを防ぐためか?

 でも、持って帰られてしまったらそんなの意味がなくなる。
 それとも、歯科医院から出た瞬間に、私服の警備員が妙なバッグのふくらみを察知して、万引きを捕まえるべく、「患者さん、患者さん、ちょっとかばんの中、見せてもらえませんか?」と近寄って来て、この名入り特製トレペが発見されると、交番に連れて行くぞと脅され、「すいません、すいません、出来心だったんです。もうしません。次回の虫歯は保険適用外でけっこうです。だから許してください」というような展開になるのだろうか?
 まあ、いずれにしろ、歯科医師ってけっこう細かいっていうか(細かい治療をするからしょうがないか)、心が小さい感じがする(刻印が医師のしわざだと、私は思いこんでいる)。

 そうそう、肝心なことを言っておかなければならないが、このとき私がトイレに入ったのはおしっこをしたくなったためで、決して大の方ではない。
 それにしても、もしここで大をしたらどうなるのだろう。
 「いやねぇ、あの患者さんたら、口を閉じたかと思ったら、すぐに下の口を開けちゃったわ」などと、衛生士グループに陰口を叩かれるのだろうか?
 そんなことを考えながら携帯で撮影。すごく悪いこと、例えば修道女のスカートの中を盗撮しようとしているようなことをしているような気分になった。

 まあいい。

 その日の往復(私が通っている歯科医院は遠いのだ)は、「ミサ・ソレムニス」を聴いた。

 ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827 ドイツ)の「ミサ・ソレムニス(Missa solemnis)」Op.123(1819-23)。
 「クラシック音楽作品名辞典」(三省堂)によると、この作品は「ルドルフ大公のオルミュッツ
大司教就任式で演奏する目的で作曲を始めたが間に合わず、完成後大公に献呈。ミサ通常文による典礼用作品ではあるが、後期のベートーヴェンが到達した高度な声楽的、器楽的様式によって全曲が貫かれ、『第9交響曲』と並び称される傑作」である。

 私は心から思う。すごい力作だ!
 私はいつも思う。なんか威厳が漂っている。
 私は何となく思う。けど、ホントに傑作なのか?

 このミサ曲、その昔から、どうも積極的に聴きたいとは思わない。
 すごい曲なんだろうとは思うが(世の中の風潮がそうだから)、こりゃあ感動ものだ、なんて1回も思ったことがない。なんだか安っぽささえ感じることがある。
 私って変な耳の持ち主なのだろうか?ねじ曲がった神経回路の持ち主なのだろうか?

 けど、鈴木淳史氏が、「わたしの嫌いなクラシック」(洋泉社新書)で、こう書いている。

 音楽的にはまったく面白くない曲である。本当にこんな曲を好きこのんで聴く人がいるのだろうかと問い質したいくらい、わたしにとってこの曲はつまらない。
 この曲に名曲としてのいかほどの意義があるのだろうかと資料を見てみても、「ほほーん、そうなのか」と膝を打つようなものは現れない。印象的だったのは、「バッハの『ロ短調ミサ』を唯一の例外とすれば、古今のミサ曲中偉大な作品である」と、とんでもない大風呂敷を広げておきながら、その理由として挙げられたのが「ベートーヴェンが自信を持って完成させた」からと記述している『最新・名曲解説全集』(音楽之友社)。
 楽聖ベートーヴェンが自信タップリに書いたから、偉大な作品になってしまうのか。ふーん。
 知り合いの演奏家に聞いたら、この曲はスコアをちゃんと勉強すれば、とても優れた曲なんだそうだ。なるほど、マニア向けの曲ですか。でも、スゴい曲だと聴き手に思わせるのに楽譜の読み込みが必要だというのは、あまりにも音楽としてみっともないのではないか。
 (p.41)
 
9d7dcc02.jpg  いやぁ、わが意を得たり!
 うれしいな!ほっとするな!

 ということで、私もこの曲、すごいとは思わんです。

 一応、私が持っているCDを紹介しておくと、ショルティ指揮ベルリン・フィル、ベルリン放送合唱団ほかの演奏。
 1994録音。デッカ。