自分が社会人になったとき、つまり就職したとき、初月給で何を買ったのだろう?
それは全然覚えていないが(たぶん、スーパーの惣菜売り場にあったカツ丼だったような気がする)、何か月か給料を貯めて初めてした大きな買い物をした。今では大きな買い物の部類に全く入らないと思うが、VHSのビデオデッキだった。
ナショナル(パナソニックじゃない)の、ただのビデオデッキだ。
ただのビデオデッキというのは、音声がステレオ対応していないモノラルのふつーのデッキということだ。今なら1万円台で買えるかもしれない。
でも、そのときは10万円もした。
しかも、私はそれを2台買った。
なぜ2台買ったのか?
レンタル・ビデオをダビングするためだ。
どんなビデオか?
お嬢さん、その質問はカマトトのようでござんすよ。
Hなビデオだ。アダルトビデオをダビングするためだ。
ふふふ……
双子以上にそっくりの2台のビデオデッキを重ねて置いた。
私は密かに、上のデッキを1号、下のデッキを2号と名づけた。
1号はTVにつないだ。2号はダビングする際の録画専用だ。
借りてきたビデオを1号に入れる。
生テープを2号に入れる。
しかし私は重大なことを見落としていたことに気づいた。
リモコンの再生ボタンを押す。
すると2台同時に再生の動きをする。
そうなのだ。
同じ機種だから、1つのリモコンで2台一斉に同じ動きをするのだ。
ということで、ダビングするときにはデッキの前までこの私めが出向き、デッキ本体のボタンを押さなくちゃならないはめになってしまった。つまり1号機は再生ボタンを、2号機は録画ボタンを。
やれやれである……
ところで、そうやってダビングしたアダルトビデオのなかに、ラブホテルでの消し忘れビデオを集めたものがあった。その名も「鍵穴」。
それにしても、消し忘れってことは、ラブホテルの各部屋にはビデオカメラが置いてあって、部屋の利用者が「記念に撮っておこうじゃん」って自分たちの行為を録画して、それをお持ち帰りになるのだろうか?
どうも納得できない。そもそも、当時はまだビデオカメラはかなり高価だったはず。それをホテルの部屋に置いてあるなんて考えられない。
たぶん、消し忘れと言いながらも、実はそのように見せた演技物、善意に解釈してもせいぜい盗撮だったのだろう(盗撮を善意ととらえるのはどうかと思うけど)。
でもいいや。
そのビデオ、10分ほどのストーリー(?)が何編か収められているのだが、そのうちの1つは売春婦(いまで言うホテトル嬢)と客を写したもので、女性の方が、あれはだめ、これはだめと客の男に制限事項の注意をしているのだが、狼と化した男がそれを守らないで最後は女が怒ってしまうという、どうも不健全というか何か悲哀を感じさせるものだった。
その映像に使われていた音楽が、マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第1番ニ長調(1833-88/改訂'93-96)の第3楽章、そう、あのカノンであった。それが陰湿な感じの画面にぴったり合っていて、「おぉ、アダルトビデオもなかなか凝ってるなぁ」と社会人1年生の私も大いに刺激を受けたのであった(言ってる意味がわからないだろうな)。
交響曲第1番の第3楽章は、この交響曲のなかでも、マーラーの生前には理解されなかった楽章だという。 ティンパニによる4度音階(カッコウの鳴き声を模倣した、この交響曲全曲中に頻繁に現れる音階)のリズムに乗って、最初にコントラバスのソロが暗いメロディーを弾きはじめる。
このメロディーは俗謡「マルティン兄貴」(フランスでは「フレール・ジャック」)をニ短調にしたもので、これにファゴット、チェロ、テューバ、クラリネットが順次加わり、カノンとなる(掲載譜。このスコアは音楽之友社から出ているフィルハーモニア版スコア)。
「マルティン兄貴」あるいは「フレール・ジャック」と呼ばれる俗謡は非常に有名で、誰もがよく知っているメロディーである。最近ではアート引越センターのCMで、引っ越し作業員の制服を着た太ったお姉さんがテンポを速めたこの曲にのって替え歌を歌い、最後は「アート引っ越しセンターへ」と締めているが、あんな太った人が引っ越し作業にやって来たら、果たしてちゃんと作業をこなせるのだろうかと、私は思ったりなんかしている。
この楽章が理解されなかったというのは、崇高である交響曲というジャンルの作品に俗謡を持ち込むとは何事か、ということであったが、マーラーの交響曲が聖と俗の混合体であることを今の私たちはすでに知っている。
マーラーがフロイトに語ったという、「崇高な悲劇性と軽薄な娯楽性の併置」なのである*)。 今日はテンシュテット指揮ロンドン・フィルによる演奏のCDを。
テンシュテット指揮のマーラー演奏は定評があるが、私はこれまで第4番しか聴いたことがなかった。その4番の演奏は、確かにすばらしいものだった。
先日タワーレコードに行ってみたら、テンシュテット指揮のマーラー交響曲全集(EMI)がセール品となっていたので、我慢できなくなって買ってしまった。
第1番の演奏もすばらしい。
華美なところはないが、巨匠の貫禄のようなものを感じさせる、がっちりとした演奏。大河のようにスケールが大きく、深みがある。何回も、それもじっくりと腰を据えて聴きたい演奏だ。
第1番は1977録音。
*) 参考:村井翔「作曲家 人と作品シリーズ マーラー」(音楽之友社)
新館入口(2014.6.22~)
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