314efdf4.jpg  新年あけましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願い申し上げます。

 と、大人の私は形式通りの挨拶をまずはする、ときたもんだ。

 やっぱり当らなかったな。年末ジャンボ宝くじ。
 でも、買ってないんだから、当たらないのが当たり前だよな。

 そんな自分勝手な無駄な悲しみに浸っている私の今年のテーマは「復活」。
 よみがえるぞ!

 マーラーの生誕150年が終わり、今日からは同じマーラーの没後100年。

 だからというわけじゃないが、今年の目標は「禁煙」でも「腹筋」でもなく、「復活」とすることにした(結局、昨年中は禁煙ができなかったです)。

 ご存知のように、「復活(Auferstehung)」はマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第2番ハ短調(1887-94/改訂1903)の通称である。

 マーラーは第2番となる彼の交響曲の終楽章に、合唱を用いる構想を抱いていた。しかし、ベートーヴェンの第9の模倣と思われるのを危惧して、躊躇していた。そして、ベートーヴェンの模倣ではない、違うものだ、とするために、その曲にふさわしい歌詞を探していたのだった。

 そんなとき、彼を指揮者として認めてくれつつあった大指揮者であるハンス・フォン・ビューローが亡くなった。1894年のことである。
 葬儀に列席したマーラーは、そのとき耳にしたクロプシュトックの「復活」の合唱でビビンと来てしまったのである。

 《私が味わった気分、死を考えた気分が私の手をつけていた作品の精神にぴったりとあてはまった。そのときにオルガンの壇の上からクロプシュトックの「復活」の合唱が響いてきた。私は電光のようにこれに打たれ、私の心のなかのすべてが落ちつきはっきりしてきた。あらゆる創作芸術家が待ちこがれていた瞬間だった》

 フリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトック(1724-1803)はドイツの詩人で、多くの頌詩、宗教詩を残している。このときマーラーが耳にした合唱の詩が、果たして誰の手によって曲がつけられたものかはわからない。
 ビューローは指揮者としてのマーラーを認めていたが、作曲家としてのマーラーは認めていなかったようだ。皮肉なことに、そのビューローの葬儀のときに作曲家マーラーに神が降りたのだった。

 それまで、第1~3楽章まで書きあげられていた第2交響曲は、こうして完成へと進むことになる(第4楽章は第5楽章の作曲中に、歌曲集「子供の不思議な角笛」の「原光」を転用するという着想がなされた。なお、第1楽章は当初「葬礼」と標題がつけられ、ここで葬られているのは第1交響曲の“英雄”であるとマーラーは述べていたが、「葬礼(Todtenfeier)」の標題はのちに削除されている)。

 交響曲第2番のCDについては、これまでにギーレンインバルショルティエッシェンバッハブロムシュテットメータなどの演奏のものを取り上げてきたが、今回はラトル指揮バーミンガム市交響楽団、同合唱団、オージェ(S)、ベイカー(Ms)による演奏。

46a6b010.jpg  ラトルは、その特徴でもあるテンポのデフォルメをここでもところどころでやっている。特に、第1楽章の終り方なんて、うっほーというくらい急減速。お立ちの方は転倒防止のため手すり吊り革におつかまり下さい、だ。
 第1楽章冒頭の低弦の上昇音型は、ブロムシュテットばりの引きずり感。鈴木淳史氏じゃないけど、モノマネじゃないよね?

 この演奏、しかしながら全体を通じて実に清潔感に溢れている。
 でかい音響効果抜群の曲なので、爆音化傾向に走りがちな演奏も少なくないが、とてもメロディックで、艶っぽい。マーラーの交響曲の中でも宗教的精神を持っている作品だが、敬虔でとても感動的に仕上げられていると思う。

 終楽章の合唱が入る前。舞台裏からのファンファーレが、遠くから聴こえるというよりもただ音が小さく絞られているようで、録音としてはちょっと不満。それ以外は、かなりお薦めできる。
 1986録音。EMI。

 ところで、私は何を「復活」させればいいんだろう?
 ふと現実的に考えると、行き場を失う。

 例えば過去に宝くじで100万円当たったことがあるとする。
 そういう人が、今年は「復活だ!」と目標を(夢を)持って、また100万円当たったとしたら、まさに「復活」である。
 でも、私には当たったという栄光の過去がない。
 ということは、この例でいくと、私にとっての「復活」は、またはずれる、ということに他ならない。
 う~ん、まずい。

 復活にふさわしい輝かしい経験がない。
 むしろもう一度起ったら嫌だなあと思うことばかりだ。

 やっぱ「復活」をテーマにするのはやめよう……