むかしむかし、まだ私が中学生だったときの話。
ある春の土曜日の昼下がり。
かわいらしい僕は、いつもにこにこしていて笑顔のかわいい近所のお姉さんに突然襲われ……ではなく、エアチェックしたショスタコーヴィチの交響曲第15番のカセットテープを聴きながらベッドの上でゴロゴロしていたら、純情そうな近所のお姉さんが、それまで見せたことのないような飢えたメスへと豹変し、僕に襲いかかってきて……ではなく、あっという間に眠気に襲われ、ウトウトしてしまった。
すごく眠くなったのにもかかわらず、高い木の枝の先に引っかかったバドミントンの羽(シャトル)のごとく落ち切れずに(眠りに)、その結果、気持ちが重い、ひどく中途半端な昼寝に終わってしまった(村上春樹の小説だったら、このあと「僕のパンツの中は精液であふれかえっていた」という記述が続きそうだ)。
このような体験が、ショスタコの第15交響曲にはある。
当時ベッドの枕元の書棚に置いてあったのが、中岡俊哉の「恐怖の心霊写真集」だったということも不快感に微妙に加担した可能性は否定できない。
何なら皆さんも一度試してみた方がよい。
すがすがしい初夏の昼下がりに(春でも可)ショスタコの交響曲第15番をかけながらのうたた寝を。特に第2楽章の寝苦しさといったら保証付き!
あなたも不快な寝汗をかいてみないかっ!
この事件のことを私は「青春のタコ15事件」と呼んでいるが、私のこれまでの短い人生(地球の生い立ちに比べれば)の中でも貴重な体験であると言えなくもない。
「言えなくもない」程度のダメージで認識が甘かったせいか、繰り返してしまったんです、アタシ。同じ過ちを。
この間の日曜日のことだ。
久々に寝室に置いてあるステレオ(この言い方、もうひどく古く感じる。けど、“場所をとるがそれなりの再生装置”と言うのも変だし)で音楽を聴いた。
そうだブログ・ネタにコフマンのショスタコの15番を聴かなきゃ、と思ったからだ。
いつもどおりポータブル・オーディオで聴けばいいものを、「世の中が節電ムードのときに、なんでまた」って感じだが、いや、すいません。“場所をとるがそれなりの再生装置”も、あんまり長きにわたって電気を通さないと悪影響が出てしまう(はずだ)。だから、このような通電は必要なのである。
でも、寝室っていうくらいだ。
ちゃんと鎮座して聴くつもりだったが、枕の角度まで整えてベッドの上に横たわってしまった。この時点で、自分の目的は音楽鑑賞なのか昼寝なのかきわめて曖昧となり、そして眠りの世界へいざなわれた。
とはいえ、今の私は中学生のときの私とは違う。
こう見えても、すでに自我がめばえ、人格も形成され、頑固さも兼ね備えるに至っている。ウトウトするなんてありえない。
環境条件においても、枕元に中岡俊哉の著書は置いてない。
中学生のときの演奏の指揮者はマキシム・ショスタコーヴィチ(ショスタコの息子)だったが、今回はコフマンだし(まったく関係ないけど)。
こうして私はアロンアルファ風に瞬時にブラックホール的睡眠に落ちた。ウトウトする暇なんかない。一瞬にしてだ。
瞬間熟睡となった今回、第15番による睡眠中の脳波への影響、身体的変調はまったくなかったと自己診断できる。
「中年のタコ15事件」は回避された。
ところがである。
私の状態がレム睡眠化したころ、すでに第15番は終わっており、妙なるラッパの音が聴こえてきて、これがまたひっどく目覚めを悪いものにした。
ショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の交響曲第3番変ホ長調Op.20「メーデー」(1929。初演1931)。コフマンのこのCD、第15番のあとにはこの曲が入っているのである。
第3交響曲については以前にも書いているが、単一楽章で終結部に合唱を伴う作品。その様子は第2交響曲(1927。同年初演)と同じで、第2番と第3番は双子のような関係にあると言われる(“姉妹”という人もいる。しかし“兄弟”という人を私は知らない)。
ただし第2番の方は委嘱作品(革命10周年記念作品)であったのに対し、第3番はショスタコ自らが書きたいと思って書いた曲。
曲の性格も違う。
ショスタコは次のように書いている。
「私は大学院の修士作品として『メーデー交響曲』を思い描いている。この作品は第2交響曲『10月革命に捧げる』とは、全く異なった性格をもっている。第2交響曲が闘いにおいて役割を果たしているとすると、『メーデー交響曲』は平和な建設の祝祭的な気分を表していると表現することができるだろう。聴衆への影響を強めるために、終曲部分に詩人キルサーノフの詩による合唱を導入している」
レニングラード音楽院の卒業時に発表した交響曲第1番(1924-25。1926初演)は「ソヴィエト国家が育てた若き天才」と音楽界にセンセーションを巻き起こしたが、その2年後の第2交響曲、さらにその2年後の第3交響曲は、ショスタコーヴィチとしては“伝統にしばられない革新性を持った標題性をもった交響曲”という意気込みを持って書かれたものの、この双子は第1番のような評判を得ることはできなかった(交響曲第3番は初演のあと公開演奏されたのは1回だけで、長らく忘れ去られた存在となった)。
第2交響曲は“ウルトラ対位法”など前衛的手法が用いられているが、第3番は労働歌のメロディーの引用などもあり、彼が第1交響曲や映画音楽で見せた、楽しく親しみやすい表情が目立つ。
ショスタコ好きな私だが、第2番や第3番の交響曲を聴くことはそうそうない。
第3番は年に1度聴くかどうか。それもハイティンク盤だけであった。
今回、寝ぼけながらコフマン指揮の演奏を聴き、ちょいと「おや?」っと思った。
第5や第10で聴く限り、コフマンは感情に溺れることなくドライとも言えるアプローチの演奏をしていたが、それは第3番でも同じ。その演奏を聴くとハイティンク盤では気づかなかった面が見えてきた。
つまり、「メーデーだ!労働者の祭典だ!」という、気分高揚音楽だという固定概念にとらわれていないこの演奏を聴くと、ショスタコは「メーデーなんか別にどうでもいいじゃん」と思っていたんじゃないかという疑念がわいてきた。
先の文でショスタコは、「聴衆への影響を強めるために、終曲部分に詩人キルサーノフの詩による合唱を導入している」と書いているが、コフマンの第3交響曲は、はつらつとした音楽が進んでいくのに、最後に合唱が入るところが“とってつけたよう”に見えてしまう。
つまり、キルサーノフの「メーデー」という詩を歌う合唱が、曲のタイトルにもなっているのに、これが全然クライマックスを形成しない。「メーデー」という労働歌の付加は、まさにショスタコーヴィチが言う「聴衆離れを防止するため」の、あるいは表面上体制向きの姿勢を見せるためのエサに過ぎないように思えてくる。 実際、コフマンの演奏では曲の終わり方も、労働歌を感情を高ぶらせて誇らしげに歌い上げるというよりは、「なんでこんなくだらない歌を歌わされんだよ?」と、気乗りしていない。
何かの式典で校歌を歌わされている不良男子学生の集団のように……
この交響曲は単一楽章であることは先に書いたが、5つの部分に分けられる。
私の目覚めをサイアクにした“妙なるラッパ”だが、これは第4部分に当たるラルゴの少し前のテューバのソロから始まる箇所(掲載譜・上。このスコアは全音楽譜出版社のもの)。
ここはハイティンク盤などで聴いていると、大きな盛り上がりを見せたあとの、合唱へとつないでいく経過部分かなって感じなのだが、コフマンの演奏で聴いてみるとまるでレクイエムにおける「トゥバ・ミルム(Tuba mirumu。「妙なるラッパの響き」の意)」のよう。
ソロのテューバ、低弦の不気味なグリサンド、3本のトロンボーンによる叫び……
これは祝祭的な気分なんてもんじゃ全然ない。
また、第5部にあたるモデラートの前のホルンの和音。このへんてこな和音が、弦の音を控えめにしているおかげで実にはっきりと聴こえるのもコフマン盤(掲載譜・下)。この和音、実に印象的。第2交響曲の合唱の導入にはサイレンが使われたが、第3ではこれが導入になる。
合唱は上に書いたように、しまりのない中途半端な終わり方。
たまらない虚脱感!
この合唱は「最初の 最初の メーデーの日。過ぎ去りし日々に 光が投げかけられた」と始まるのだが、これを真剣に歌い上げようって意気込みは感じられない。
この交響曲、嫌いではなかったが、いまはかなり好きになりつつある私である。
第3番の録音は2005年。合唱はブルノ・チェコ・フィルハーモニック合唱団。MDG。
そうそう、第3交響曲の終わりのトランペットのファンファーレ風メロディー、モンテヴェルディの歌劇「オルフェオ」の序曲(シンフォニア)に似てると思いません?
ショスタコのOp.1である「スケルツォ」にはモンテヴェルディの「ヴェスプロ」に似たメロディーがあったし……
なんか深い意味が込められているのだろうか?
なおコフマンの15番の演奏は、その後函館などでちゃんと聴いたのはご報告したとおり。「あたかも聴いたかのように」記事は書かないので、決して私を怪しまないように。
ところで、あのタイガーマスクからまたメールが来た。
昨日のことだ。
↓
ゲスト様
タイガーマスクさんから新着メッセージが届いております。
▼件名▼
只今、入金予定日は▼3/31▼です。直ちに送金を開始します。
↑
この間の宣言は気を引くためのウソだったのね……、わかってはいたけど。
新館入口(2014.6.22~)
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タコ4もきついですね。でも、いまだって、そんな音楽でも眠れるってことはないのでは?