昨日は、「こどもの日」だから、浅いか深いかはともかく、子どもに関係がある曲について書こうとしたのに、私の曼荼羅輪郭型思考は、なぜかまったく子どもとは関係のない、最後の20数年は僧籍に入って生涯黒衣をまとったというリストの作品、それもちょっと地味な存在の協奏曲について書いてしまった。

 記事を書いている途中までは、「衛兵の交代(子供たちの行進)」という曲から強引に話を成長させようと思っていたのだった(うまく育てる自信はなかったが)。

 「再試行しますか?」。
 「Y」。

 「衛兵の交代(子供たちの行進)」は、ビゼー(George Bizet 1838-75 フランス)の超有名オペラ「カルメン(Carmen)」の中の1曲。
 歌劇「カルメン」の中でも、特に優れた(親しみやすい)楽曲は管弦楽組曲として演奏されているが、「衛兵の交代(子供たちの行進)」も組曲版に含まれている(第2組曲)。

 おそらく「カルメン」は、音楽史上のあらゆるオペラの中でもっとも有名な作品だろう(もっとも、音楽史上以外にオペラはないけど。青果市場や祇園四条と「カルメン」とはあまり深い関係はないだろう)。
 しかしこの有名傑作オペラも初演の時は不評だった。

 ところで、ビゼーも天才だった。父は声楽の教師、母はピアニストで、ビゼーは幼いころから音楽に親しんだが、すごい記憶力の持ち主だったという。このあたり、モーツァルトのことを思い起こさせる。そして若くして亡くなるところも。
 ピアノ演奏で天才ぶりを発揮したものの、ビゼーはオペラの道を目指していた。

 1863年に初演された歌劇「真珠とり(Les pecheurs de perles)」(1862-63)で、ビゼーはオペラの作曲家として認められた。

 余談だが、私が子供の頃に家にあったオルゴールは、「真珠とり」のなかのロマンス「耳に残る君の歌声(Je crois entendre encore)」のメロディーだった。
 なぜ家に唐突にオルゴールがあったのか。
 オルゴール会社が、素敵だが物悲しいこのメロディーをなぜオルゴールに使おうと思ったのか。
 なぜ私はそのオルゴールを分解してしまったのか。
 多くの疑問点は残るが、後年私がこのロマンスをちゃんと耳にしたとき、すごく懐かしい思いがしたものである。

 「カルメン」は1873~74年に作曲され、初演は1875年。
 原作はメリメの小説「カルメン」で、これに基づきメイヤックとアレヴィが台本を書いた。4幕から成る。

 物語は、竜騎兵のドン=ホセがタバコ工場の女工のジプシー女・カルメンに惚れ込んでしまい、その挙句に軍をクビになってしまうが、当のカルメンは闘牛士のエスカミリオに心移りしてしまう。ホセには故郷に許嫁のミカエラがいたが、カルメンのことを忘れられず、(ホセからすれば)浮気女のカルメンを、闘牛場の入口で殺してしまう、というもの。

 実はこのオペラ、初演のときにはオペラ・コミック(レチタティーヴォ(話し言葉や朗唱を模倣するような歌)に相当する部分を台詞で行なう歌劇)であった。つまり、音楽や歌の間に台詞が語られるのである。これが初演時に不評だった一因。
 また、女工がヒロインだということも、すぐには受け入れられなかった理由だという。

 この初演後間もなくして、ビゼーはこの世を去る。

 ビゼーの死後、ギローが台詞をレチタティーヴォに直し正歌劇に仕立て直した。これによって人気が高まり、現在に至っている。ギロー(Ernest Guiraud 1837-92)はフランスの作曲家で、ビゼーと親交があった人物。ビゼーの「アルルの女」の第2組曲を管弦楽編曲したのも彼であるが、自分の作品はまったくといっていいほど知られていない。
 
 私がこの曲を全曲で聴いたのは(つまり歌劇を観たのは)、札幌での上演によってであった。子供たちが出てきてステージ上でふざけたり小突きあったりしている場面を目にし、「やばっ、立ち位置かなんかでもめて、喧嘩始めちゃった」とはらはらしたのだが、はい、それも演技でした。

 やれやれ……

 オペラに出演するような子供たちは、間違ってもステージ上でいさかいなんか起こさない。考えてみりゃ当たり前のこと。私の幼少時代とは育ちが違うってわけだ。

1873da36.jpg  今日は全曲、つまりオペラのDVDをご紹介。
 レヴァイン指揮メトロポリタン歌劇場管弦楽団、同合唱団。
 カルメン(Ms)がバルツァ、ドン=ホセ(T)がカレーラス、エスカミーリョ(Bs)はレイミー、他のキャスト。
 いやぁ、バルツァがタバコ工場の労働女にばっちりはまってる。色目を使ったかと思えば、激しい気性を表に出したり、うさんくさいことをしたり。
 観ていてこいつには本当に腹が立つ。ということは、それだけ演技が上手ということ。
 闘牛士役のレイミーが、ちょいと貫禄不足のような気がするが、実際の闘牛士がどんなもんだかわからないので、こんなもんなのかもしれない。
 最初に闘牛用の牛が出てきた、と思ったら指揮者だった。

 1987年ライヴ。グラモフォン。

  「カルメン」の中の、カルメンが歌うアリア「恋は野の鳥(ハバネラ)」が、ショスタコーヴィチの交響曲第5番の第1楽章に引用されている話は前に書いた。まさにそのまんま。ただ、終楽章にも使われているという話はちょいと無理がある気がしないではない。

 小学2年生のときだったと思うが、音楽の授業の時間に「カルメン」の第1幕前奏曲のレコードを聴かされた。
 私はすっかり気に入ってしまい、もう一度聴くことはできないかと小さな胸を悩ませていた。
 すると札幌からこの浦河の小学校に転校してきたばかりの哲司・M君が、「うちにあるよ。聴きにおいで」と誘ってくれた。

 彼の家には立派なステレオがあり(もちろん家具調だ)、彼が言ったとおりその曲のレコードをかけて聴かせてくれた。お父さんにばれたらまずいと、ひどく慎重にLPに針を落としていたのが記憶に鮮明に残っている。

 また、彼の学習机の2番目の引き出しをあけると、そこにはチョコレートやらキャラメルの多くのストックがなされていた。私は与えられたおやつはすぐに食べるタイプだったし、そもそも家でおやつを与えられた記憶すらあまりないが(その点、磯野家はいつもおやつだけはまともに出ている。カツオやワカメが羨ましい)、この哲司・M君の計画的というか、がつがつしない振る舞いに、「やっぱ札幌もんは違うなぁ」と感心したものだ。なんというか、インテリの香りがした。だいたいにして、言葉づかいも上品だった。「だべ」とか使わなかった。

 ところがある日、授業で掛け算の問題を当てられた彼は、答えることができなかった。
 そのとき担任教師が「なんだ、哲司。札幌から来たわりにはあんまりできないんだな」と言った。
 今の時代なら大問題になるような発言だが、哲司・M君は青ざめた表情で「すいません」と答えていた。冷静に考えれば、札幌から来たから浦河の児童より優れているという思い込みが、おかしなものなのだが。

 だが、それをきっかけに私は彼をインテリと思わなくなった。
 言葉づかいが上品なゆえに(そして、品の良さをアピールする傾向があった)、裏切られた気がした。
 レコードがあるのはお父さんの趣味。
 チョコレートをため込んでいるのは、単にせせこましいだけ。だって、考えてみれば、私が遊びにいったときも、見せてはくれたが匂いすらかがせてもらえなかったもん。

 哲司・M君、いまごろ何をしているんだべ?
 あの「カルメン」は誰の演奏だったんだべな?

 こう考えると、私は子供のときから、音楽の嗜好が古典的だったのかもしれない。