cd77e7e8.jpg  昨日の記事を読んでくれた方ならご存知のように、私は今朝を東京で迎えた。
 東銀座のホテルである。住所でいえば築地だ(←そんなんどーでもいいか……)

 昨日は夕方に埼玉から東京へ移動。
 東京駅に着くと、そのままオアゾの“小松庵”へ。
 久々の“小松庵”の料理、そしてそばは極上的にウマかった。

 私は“おかめぬき”も注文したが、一緒だった鉋さんが「おかめ……ぬき……?」と、不思議そうな声を出した。
 無理もない。北海道ではあまり聞かない語句だ。私も北海道人だけど……

 “おかめぬき”とは、ここに書いてるように、トッピング集である。「お亀さん、を、抜く」なんていう、Hなことをそば屋でしてはいけない。想像だけでもいけない。

 この日、小松庵子さんはお休みのようだったが、代わりにいた初めて見る(って言っても、私がここに来たのは1年ぶりくらいになるから、私の基準でいうのは間違いなんだけど)店員の女の子もとても感じが良かった。そして、店長も元気そうだった。何よりである。

f118fc48.jpg  20時前に食事を終え、ホテルへ。
 すぐ近くのナチュラル・ローソンへ寄ると、前回と違いビールはふつうに売られていた。しかもサッポロ黒ラベルも置いてあり、私は喜んでしまって、ついでにカステラまで買ってしまった(小松庵の唯一の難点をあげるとすれば、ビールが“琥珀エビス”という濃ぉいものしかないということだ。あっさり爽やかな私は、濃厚タイプのビールは苦手である)。人間、興奮すると時として不思議なものをつまみに買ってしまうようだ。

 また、朝ごはん用におにぎりを買う。部屋に湯沸かしポットがある、そのごく当たり前のことへの喜びを感じる。豚汁が飲める。

 このホテル、最近主流になった、1階の食堂みたいな広場なんかで「焼き立てのパンなど朝食をご自由に」っていう、朝食が用意されている(朝食で1500円もとる、かつてのホテルのやり方よりはるかに良心的だとは思う)。
 食事をするという行為は、けっこうその人の“本性”、赤裸々な本能が表に出るものだ。
 そういうのを見られたくないから、私はなるべく見知らぬ人の中に入って食事をするのは避ける。自分を見られたくないという意味で。誰も見てないだろうけど。
 だから、部屋でコンビニ食となることが多い。

 §

 このところずっと、買ったCDは“当たり”であった。
 でも、いつまでもそうは続かない。
 今回は「買って失敗した」という“はずれ”とまでは言わないが、私のこのところのおだちへの警鐘的な、まさに「鐘が鳴るなり和田アキ子」的な刺激ある演奏。
 
 私にとって、中学時代のひどく悲しい思い出がメンコンと結びついているとすれば、高校時代の驚くほど悲しい思いを打破してくれた作品はベルリオーズの幻想交響曲である。

 中学生のとき。

 私はすでにクラシック音楽を聴くのを趣味とし、多肉植物を育てるのが好きであるというだけで、少し一目(いちもく)置かれる存在になっていた。この場合、一目置かれるという意味は、ほんのちょっぴり変わり者とみなされていたということである。

 多肉植物が好きになり、育てるようになったいきさつは次のとおりである。

 第 1段階:自分の部屋にも緑があったら気持ちが潤うかもな。
 ↓
 第 2段階:ホクレンマーケットの出口にある花屋に行ってみよう(注1)。
 ↓
 第 3段階:なんだが葉っぱの模様が骨みたいな変わった植物があるぞ。これを買おう。
 ↓
 第 4段階:それはダニアという観葉植物だった。
 ↓
 第 5段階:でも水やりが結構面倒だな。それに1鉢じゃ寂しいな。
 ↓
 第 6段階:よし、またあの花屋に行こう。
 ↓
 第 7段階:おぉ、この肉厚でたくましい植物が私の好みだ。
 ↓
 第 8段階:それはアロエだった。手間がかからずナマケモノでも育てられるらしい。
       しかも、食べれば胃にもいいという。やけどにも効くらしい。
       「中学生なのに鉢植えを育てるなんて、心が優しい子ね」
       店のおばさんにこう褒められる。
 ↓
 第 9段階:多肉植物、さらにサボテンにムラムラと興味が湧き、抑えられなくなる。
      「サボテンと多肉植物」、「流行の多肉植物」という園芸書を買う。
      「趣味の園芸」を買うようになる。
 ↓
 第10段階:カスタムパルコの3階にあった園芸店に行ってみた。
        そこでユーフォルビア属の多肉植物の“花キリン”を買う(注2)。
 ↓
 第11段階:園芸書の巻末に広告が載っていたところへカタログを請求する。
        “堀田千草園”と“山城愛仙園”である。
 ↓
 第12段階:これらから通販で購入するようになる。
        そのへんの園芸店にはない品種を手にすることで、喜びが高まる。
 ↓
 第13段階:とはいえ、中学生。お金が続かず、そのうち購入を断念。
        しかも、冬場の自室は植物人間の休憩所のようになってしまった。
 ↓
 第14段階:いつか“山城愛仙園”に就職しようと夢見る。
 ↓
 第15段階:買わないので、そのうちカタログが送られてこなくなる。
 ↓
 第16段階:そのうち飽きる。

 という経過をたどった。

 余談だが、私は大学も就職したのも北海道。
 その後、大阪に転勤になったが、外勤で何度も阪急神戸線に乗ることがあった。
 その車窓から“山城愛仙園”の看板を初めて目にしたときには、何というか、胸が詰まる思いがした。
 私はかつて、将来はここに勤めることも夢見た。というのも、山城愛仙園のカタログの最終ページには、毎号「園長候補生募集」という案内が載っていたから。ここの園長候補になりたいと真剣に思っていたときがあったのだ(ずっと候補でいいのか?)。

 実際に店を訪れてみたい衝動に何度もかられたが、勢い余って何十万円もする珍種の多肉植物を買ってしまいそうなので止めた。そうそう、すぐに枯らしてしまったが、あのころここで通販で買った珍種(変異種)の「珍棒閣」というサボテンは、とげがまったくなく、本当にあれを緑色にしたようなものだった。あれって何かなぁ?枯らさないで巨大に育て上げたかったなぁ。

 以上が、私の青春期の“多肉体験”である。

 さて、一方でクラシック音楽の方だが、当たり前のことかもしれないが、多肉趣味よりはまだまともに見られていたように思う、人さまからは。学校の授業でも音楽鑑賞っていうのはあるが、多肉栽培ってのはないし……

 中3のときに同じクラスだったS.Y君がちょっとだけクラシックを聴くらしく、なんとなく鼻につく言い方で私のところへ寄って来た。

 「ねぇ、君は誰の曲が好きなの。僕はねぇ、ベルリオーズの幻想交響曲が好きなんだ。いいよねぇ~」
 私はそのころまだ「幻想交響曲」を聴いたことがなかった。その曲の存在すら知らなかった。
 「えっ、知らないの?君のことだからてっきり知ってるもんだと思ったのに……意外だなぁ」
 こいつ、柱サボテンで殴ったろうかと思った。

 翌日。
 S.Y君はこの学校では山側の奥地から通学していたにもかかわらず、頼みもしないのにそのLPレコードをわざわざ持ってきて貸してくれた。

 私はそのLPを聴かなかった。彼のようなタイプは危ない。もし、それをかけたときに間違って傷でもつけてしまおうものなら、一時的に大騒ぎになり、長期的にねちっこく攻めてくるに決まってるからだ。

 早々に返したとき、彼は言った。
 「どうだった?気に入った?」
 私は「気に入らなかった」と答えた。

 その半年後、親戚がLPを買ってくれるという私の人生の中でも最初で最後の機会があったが、そのとき選んだのは小澤/ボストン響の「幻想」のLPだった。

 上に書いたように、ベルリオーズ(Hector Berlioz 1803-69 フランス)の「幻想交響曲(Symphonie fantastique)」Op.14(1830/改訂'31)の人生とのかかわり合いは深い。何が深いかって、こういう風に深い。

 これまで数多くの録音を聴いてきた。
 たとえば、歴史的名盤と言われているミュンシュ/パリ管の演奏は私にはパピっと来なかった。カラヤン盤は鐘の音が全然嫌い。とかなんとかで、どの演奏を聴いたことがないかわからないくらい聴いてきた(というのは過言)。

 先日タワレコを歩いていたら(今まで這ったことはない)、ミュンシュ/ブダペスト交響楽団のCDが目にとまった。
 過去に聴いたことがあるかどうかの記憶も曖昧だったが、最近この曲のCDを買っていなかったので、たまには、と買ってみた。ブダペスト交響楽団というのはハンガリー放送管弦楽団のレコーディングの際の名称である。

 録音は1966年と古いが、残響が豊富な音は耳に心地よい。
 と思ったら、右の音が急にスゥーっと小さくなったりする。まるで聴力検査をさせられているかのようだ。思わず指に力が入る。
 こういう箇所がいくつかある。まっ、録音が古いんでしょうがない。
 でも、それだけじゃない。けっこう演奏のミスも目立つ。

 そして、私はこの録音を聴いたことがなかったことを明確に認識した。

 決め手は第5楽章(終楽章)の鐘である。
 この特徴的な鐘の演奏はこれまで聴いたことがないものだった。

 おそらくこの音からして、チューブラ・ベル(のど自慢の鐘だ)を使っているんじゃないかと思うが、それにタムタム(ドラ)か何かも小さい音ながら重ねている。

 それはいいのだが、この鐘、素人のぶっつけ本番かい?っつーくらいはずす。
 「うわっ、鳴らない!」、「おぅ、ずれてる」、「ひょえぇ~、とんでもないとこで叩いてる」ってもんで、これはひどい!勘で叩いてるのかぁ?

 私を「幻想」に目覚めさせ、かつ失恋の痛手から救ったデ・ブルゴスの東京公演のときの鐘もひどかったが(私はTVで観た)、こんな演奏をCD(あるいはLP)で出すなんて、ほとんどこのときの鐘の奏者への無期懲役の嫌がらせとしか思えない。他のパートが引っ張られなかったのが不思議。何度聴いてもハラハラし、停止しているエスカレーターを上るときのような気分になる。

 逆にこんなミスった演奏、録音で聴けるなんてなかなか貴重。
 仕事で失敗したときなんか(例えば、50ページから成る資料を100部コピーし製本もし終えたのに、4ページと12ページと19ページと47ページ目が抜けていることが発見されたなど)、これを聴くと勇気づけられるかもしれない。

 あらためて書くと、ミュンシュ/ブダペスト交響楽団の「幻想」は1966録音。Hungaroton。
 第1楽章の反復も、第4楽章の反復もなし。
 私が買ったCDは、しかしタワレコのオンラインショップには見当たらなかった。
 私はなぜ今回このCDに出くわしたのだろう。運命かしら?

 ところで、来年1月の札響第545回定期では「幻想交響曲」が演奏される。
 札響は「幻想」専用の鐘を持っている。

 注1) 当時住んでいた西野にはホクレンマーケットという体育館のような造りの店があった。けっこうにぎわっていたが、西野に西友が出店したことであっけなく閉店した。
 注2) この花キリン、今でも私の実家で生存しているが、枯れもしないが育ちもしないという均衡状態を保っている。そこの家主のぞんざいな扱いのせいだ。