楽聖・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827 ドイツ)が書いた交響曲は9曲である。このくらいの数がふつうだと我々は自然と思っている。
 というのも、ベートーヴェン以後の作曲家で交響曲を書いた人たちのその数も、だいたいこのくらいだからだ。

e6407811.jpg  でも、ベートーヴェン以前の作曲家、交響曲の父・ハイドン(Franz Joseph Haydn 1732-1809 オーストリア)の場合は番号付きの交響曲だけで第104番まである。
 また、神童・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91 オーストリア)の場合は、第41番まである。

 交響曲の父と呼ばれるだけあって、そんなに書けたハイドンは精力旺盛な父さんだったのか?
 ハイドンの数には及ばないが、41番まで書けたモーツァルトはやっぱりお盛んなどーしよーもない女好きだったのか?
 ベートーヴェンは女好きらしかったが、9番までしか書かなかったから独身のまま終わったのか?

 当たり前のことながら違います。

 それにしても、この数の急激な減少は、私のブログに関してのGoogleのウェブマスターツール問題を思い起こさせる(極めて個人的な問題であるが)。
 私のブログの記事数は1300異常、いや以上になる。半年ほど前まではウェブマスターツールでの「送信されたURL」「ウェブインデックス内のURL」の数はほぼ記事数と一致していた。
 ところが何が起こったかわからないが、ある日突然、その数がどちらも130に減少し、以後そのままである。
 ヘルプを参照しても、別なヘルプを参照しなきゃならないくらいわかりにくい。
 私が使っているこのOCNの“ブログ人”、もしくはグーグルの改変か何かがあったときからおかしなことになっているような気がするが、考えれば考えるほど自分がおかしくなってきそうである。

 それはいいとして、交響曲の話に戻る。

 ベートーヴェンが女好きというか、女性に惚れやすいタイプだったのは事実のようだ。
 弟子のフェルディナント・リース(Ferdinand Ries 1784-1838 ドイツ)は、「ベートーヴェンは婦人を見るのが大好きであった。とりわけ若い美人の顔には目がなかった。……彼はじつによく女に惚れたが、たいていは長続きしなかった」と書いている(ヒュルリマン編、酒田健一訳「ベートーヴェン訪問」:白水社)。

 あっ、ごめん。交響曲の話に戻らなかった。
 今度こそ本気で戻す。

 まず、ベートーヴェンは第9番までしか作曲しなかったが、その交響曲のどれもがかなり個性的である。そのあたりはハイドンやモーツァルトとは異なる。
 しかし最も重要なのは、ベートーヴェンの意識である。彼は自らの交響曲(に限らないが)を芸術的な個性ある作品として作曲したのだった。

 ハイドンやモーツァルトのころは、雇用主である貴族や作品を注文してくる人たちの需要を満たすことが最大の務めであり、作品は個性的でなければならないという概念は弱かった。つまり、作曲された作品は大量消費財であり、ほぼ使い捨てにされた。
 ということは、この時代は作曲されてもまったく演奏される機会がないまま忘れ去られた、いまでは名前をも忘れられた作曲家の作品も大量にあったはずである。

 ベートーヴェンはその風潮を断ち切った。
 使い捨てはエコじゃない、というふうに地球のことを心配したのではなく、おいらが書く交響曲は芸術作品なのだ、という信念から。
 ベートーヴェンには注文されたり、義務づけられて書いた交響曲が1曲もない。すべて、あの怖い容姿の内側から湧き上がってきた創作意欲に基づいて作曲されたのである。

 この考え方はすごい。
 いままでの音楽家(作曲家)の在り方を根底からひっくり返すものだからだ。そして、このあとの作曲家の立場は、ベートーヴェンと同じように“自由な職業音楽家”と位置づけられるようになったわけだ。
 ただし、ベートーヴェンはすごいことをやってのけたものの、時代背景が変化したということもあった。
 つまりこのような生意気なことを言っても許されるような環境に世の中も変化していった。

 ハイドンは生涯雇われの音楽家でいなければならなかった。モーツァルトはそういう束縛がいやで逃げ出したが経済的困難に直面してしまった。
 ベートーヴェンは自分らしさを最後まで貫くべく、自由な立場で創作した。けっこう金遣いはあらかったらしいが……

 とにかくこういう生き方ができたのは、彼の強い性格ゆえに成し得たとも言える。
 なにせ怖い性格というか、ある種変わり者であった。
 たとえば、弟子のカール・フリードリヒ・ヒルシュ(Karl Friedrich Hirsch 1801-? )のこんな言葉が前掲書のなかにある。

 ベートーヴェンは彼の弟子にたいしておそろしく厳格で、まちがいをおかしたりすると猛烈に腹を立てた。すると彼の顔はまっかになり、こめかみや額の静脈がみるみる怒張した。また機嫌が悪かったり、いらいらしているときには、この芸術の徒弟をしたたかにつねりあげた。それどころか肩にかみつくことさえあった。とにかくレッスン中の彼は非常にきびしかったのである。こうした怒りの発作はとくに《あやまてる五度や八度》にぶつかると激発した。そしてたけり狂ったベートーヴェンはもつれる舌をふるわせて同じ言葉をなんども繰り返す――「いったいなにをやってるんだ!?」 しかしレッスンのあとの彼はいつものたいへん《やさしい》人に戻った。

 静脈が怒張?
 つねりあげる?
 肩にかみつく?
 たけり狂う?
 もつれる舌?

 やはりフツーじゃない。
 いくらやさしい人に戻ったからって、やっぱり近づきたくはない。

509b0d5c.jpg  そんなベートーヴェンが書いた最初の交響曲と2番目の交響曲、つまり交響曲第1番ハ長調Op.21(1799-1800)と交響曲第2番ニ長調Op.30(1801-02)。
 この2曲はセットで語られることが多く(実際、私もすでにセットで取り上げている)、それはベートーヴェンの交響曲ではこのあとの第3番になってその形が大発展したためであるが、第1番からしてやはり個性的であることは間違いない。

 第1番は古典派の影響が強く、「おや?なんだか甘っちょろい、素人っぽい開始だなぁ」なんて、よく知らないくせに思ってしまいがちだが、心を無垢にして耳を傾けると、やっぱりハイドンでもモーツァルトでもない、つまりはベートーヴェン臭さが漂ってくる。なお早くも、この曲の第3楽章はメヌエットながらスケルツォ的性格を持っている。

 交響曲第2番は第1番に比べずっと風格が増している。この曲も古典派の様式は残っているが、第3楽章ではスケルツォを用いている。
 このころベートーヴェンは耳の疾患に悩まされ、人生に絶望して「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いているが、そんな時期に書いた作品にもかかわらず明るく甘い曲だ。
 これは彼お得意の、悩みを克服した歓喜?
 ベートーヴェンのところにはこのころから貴族の若い令嬢たちが弟子入りしたようで、その影響があるのかもしれない。

 先日購入したショルティ/シカゴ響の演奏はとにかく私の好みに合っている。
 第1番の若々しくも堂々とした演奏。第2番のスケール感。どちらもすばらしい。
 録音は第1番、第2番とも1974。DECCA。

 ということで、病院に行ったときの話については再び記述順延。
 だって、今日はオホーツクの海が見える街に出張なんだもん。関係ないけど……