その病院の放射線検査室は地下1階にある。
地下というせいか、どのフロアよりも一層暗く悲しげな空気が全体に充満している。
照明を蛍光灯からLED電球に換えることを提案したくなるくらいだ。
時間になって私の名前が呼ばれる。
まずは受付横の部屋へ入る。
血圧を測る。
おぉ、いつになくすばらしい値だ。この値は健常な人の血圧よりも、より優れている。
看護師が私に尋ねる。
「CT検査を以前受けたことがありますか?」
「あります」
「造影剤を使いますが、そのとき具合が悪くなったことなどありませんでしたか?」
「あの、造影剤のせいかどうかわかりませんが、去年CT検査を受けた3日から4日あとにひどい下痢に襲われました。あと、ひどい寝汗と」
「えっ?そのとき造影剤、使いました?」
「はい使いました。肛門のあたりが熱くなりました」
「かなり症状はひどかったですか?」
「はい。眠りそうになって全身の緊張感がなくなったら漏れてしまうのではないかと思って、寝るのもままならなかったです。それに夜中、ひどく寝汗をかきました。あっ、ということは、眠ったことは眠ったんですね。漏らしはしませんでした。うそじゃないです。でも寝汗はひどかったです。イカの塩辛をレンジにかけたときぐらい、水分が出ました」
「ちょっと待ってて下さい。聞いてきますから」
そういうと、その看護師は第1検査室の方へ走っていった。
私の肛門が熱くなった件についてではないだろう。下痢った件でだろう。
戻って来た彼女は、「造影剤のせいかどうか先生に聞いてもらってます」といいながら、しかし優しい母親のような口調で、「きっと、造影剤のせいですよ」と言い添えた。
「もっと前に腎臓の検査をしたときにはなんともなかったですけど」
私はここまで来て検査中止になっては困ると思い、このような前向きな発言をした。
「造影剤にもいろいろな種類がありますから。ウチの病院も何種類かを用意してます」
どうやら、中止は中止になったようだ。
第1検査室から別な看護師がやって来て、「〇〇をお願いします」と、“私の看護師”に言った。
「は~い」と返事をした彼女は、2種類のアンプルの首を切り、2本の注射器にそれぞれを入れ、L字型のアダプターのようなものにその2本を装着した。
そのアダプターから細いパイプが伸びていて、先には針がついている。
「ちょっと痛いですよ」と言いながら、私の腕に針を刺す。
刺した瞬間に私の血がちょっとだけ注射器側に逆流する。
なかなか元気だわい。
何の薬かわからないが、とにかく2種類の注射液を体内に注入された。
そのあと検査室へ導かれる。
「導師入場!」って、わけのわからないことを考えたりする。
検査が始まる。
脳ドックのMRIをこの間経験したので、機械の形は似ているもののCTの方が音がこんなに静かで、ジェット旅客機とカラスぐらい違うものだったかと、あらためて感心する
何回か、「息を吸え、吐け、止めろ」という合成女性音声での指示があった。
たぶん5分くらい経ったときだろう、看護師がやって来て「気分は悪くないですか?あと5分もかかりませんから」と言った。
私は歯科治療を受けている患者のように、声を出さずにうなずいた。声を出したら体がずれるような気がしたからだ。撮影中じゃなきゃずれたって構わないんだけど……
「では、造影剤を入れます」
えっ?これから造影剤を入れるの?
じゃあ、いままで撮っていたいたのは?
造影剤なしでも写るのか、それともこれまではリハだったのか?
うっ!全身が熱くなった。去年の記憶では肛門だけが熱くなるような気がしていたが、全身が熱くなった。
そのあと、「息を吸って吐いて止めろ」という命令は3回ほど。
「はい、終わりです」、だ。
CT検査って、こんなに早かったか?
「具合が悪くなったら外来に電話してください。今回は先生の指示で抗アレルギー剤の注射を打っておきましたから大丈夫だとは思います」と、第1検査室担当の看護師が説明してくれた。
先生って、その担当医だろうか?
今日も出勤していたのだろうか?
最初に打ったL字アダプターのダブル攻めが抗アレルギー剤だったのだろうか?
強い反応がでる造影剤じゃないと言っていたが、それでも頭がボワーンとする。多少ふらふらする。
看護師は「これからお仕事ですか?たいへんですね。でも、強いものじゃないですから、運転もできるくらいです」と言っていたが、2mmぐらい宙に浮いたような感じだ。
そのふらふら感は、1階で会計するときに絶頂を迎えた。
「1万580円です」
ふらふらどころか、その金額を聞いてその場でひざまずきそうになった。
タケぇ~。
正味約15分で1万円。暴利キャバクラのようだ。
支払いを済ませたあと、よろよろと歩きながら、同じフロアの隅にある喫茶店に入った。
喫茶店ながら、終日全面絶対禁煙の店だ。
でも、朝8時からやっているのはありがたい。
私はカレーライスを注文した。
メニューは、ほかには目玉焼きカレーとハンバーグカレーがあったが健康と財布のためにシンプルな飾り気のないカレーにした(ほかにもスパゲッティやサンドイッチがあったけど)。
店には私のほかにすでに2人の客がいて、2人とも約束事のようにモーニングセットを食べている。
私はただのトーストは好きではないし、いま別にコーヒーも飲みたくない。
ご飯の国の人だもの。っていうわけじゃないが、要するにカレーライスを食べたかったのだ。
「この時間はモーニングセット以外はできません」と言われるかとも思ったが、けっこうご年配のウェーターは「はい」と当たり前のように返事をしてくれた。
ほどなくしてカレーが運ばれてきた。
可もなく不可もない味だが、好感の持てる味だった。ラッキョウが2個ついているのと、福神漬けが多めに添えられているのもうれしい。これに早朝サービスで目玉焼きがのっていれば申し分ないのだが、残念である。
こんな時間にカレーライスを、しかも病院内で食べているなんて、いくら朝カレーは体に良いと巷では言われているとはいえ、なんか罪深いことをしている気がする。しかも朝カレーブームは下火になりつつあるし……
時刻は8:55。
朝を絶食したというよりは、こうなると遅めの朝食を食べているのとなんら変わりがない。
場所が自宅なら、前夜の残りのカレーを無感動に食べているというシチュエーションだが、腹ペコになっていた私には感動的な食事である。
それにしても、朝から外食でカレー……
店内ではちょっと肩身が狭い感じがしたが、そこに60歳くらいのおじさんが入って来た。
「ナポリタン、大盛り!」
私は救われた気がした。
会社に戻ったのは9:20。
検査を受けてから出社すると事前に伝えていなかったら、単に少し寝坊して遅刻したと、あらぬ疑いをかけられるところだった。
戻ると課員に、「MUUSAN、目がトロンとしてますよ」と言われた。
そこで、CT検査を受けてきたこと、造影剤のせいですこしふらついていること、会計のときに金額を聞いて全身骨折で崩れ落ちそうになっことを教えた。
「造影剤を入れられると全身が熱くなる」ということを話している途中で、別な課員が席に戻って来た。
私の「熱くなった」という言葉だけを聞いて彼女は言った。
「や……はり、夏デす、からネ」
そうじゃないって…… ところで、今回の検査で私に携わってくれた2人のベテラン看護師を見ていて、昨日紹介したイベールのCDと一緒に購入したバルトークの2枚組廉価CDのことを、私は頭に浮かべていた。
いや、2人と2枚ということからではない。もちろん廉価という意味では全然ない(そんな意味がどこにあるというのだろう?)。
2人の女性の連携という意味からである。当たり前のことと言えばそれまでだけど……
このCDに、ラベック姉妹によるピアノ・デュオ作品が2曲収められているのである。
バルトーク(Bartok Bela 1881-1945 ハンガリー)の、「2台のピアノと打楽器のためのソナタ(Sonate fur zwei Klaviere und Schlagzeug)」Sz.110(1937)と、「2台のピアノと打楽器・管弦楽のための協奏曲(Konzert fur zwei Klaviere,Schlagzeug und orchester)」Sz.115(1940)である。
協奏曲の方は、作曲者自身がこのソナタを編曲したものである。
ラベック姉妹(カティア・ラベックとマリエル・ラベック)はフランス出身のピアの・デュオで、最近はとんと名前を聞かなくなったが、1980年頃は日本でもけっこうな人気がわき起こった。
それは音楽性とかなんとかよりも、どこかのTV-CMに起用され、ビジュアルの面から人気が出たのだった(でも、顔を覚えてないな……)。CMの曲はラヴェルの「マ・メール・ロア」だったような気がする。
いずれにしろ、日本ではよくありがちな、TVによるブレイクが起こったわけで、当時はピンク・レディーと人気を二分するまでは全然いかなかったろうけど、そして、最近のACのポポポポーンというCMほど話題になったわけではなかったが、クラシック音楽界はけっこう盛り上がったと記憶している。
ただ、このバルトークの演奏を聴くと、テクニックも確かなようだ。
この曲、あまり耳に心地よい作品とは言い難いが、かなり難しいということはわかるのである。値段が相当お買い得なCDなので、お小遣いに余裕がある人には購入をお薦めする。
ラベック姉妹によるソナタとコンチェルトの録音は1985年。EMI。
私はすっかり医療費貧乏である。
そして本日、最終診察結果が言い渡される。