883d2472.jpg  沖縄に出張するといつもちょこっと気になっていたものがある。
 それはところどころで見かける“〇〇共同店”という店だ。

 共同店って何だろう。数年前、TVでコンビニの経堂駅前店の店員のマノマネをしてた青年はどこに行ってしまったのだろう。地味に支持していたのに、私は。

 と、1週間前の北海道新聞の日曜版にこの共同店について詳しく書かれていた。

 それによると、〈共同店は沖縄で生まれた地域経営の商業組織〉だそうで、ここで取り上げられている国頭村(くにがみそん)の奥(おく)という集落にある奥共同店は、〈その草分けで、創業105年を迎えた。97歳から生まれたばかりの赤ちゃんまで住民全体が出資する〉という。奥で共同店が生まれたあと、沖縄北部のほぼ全集落に共同店や共同売店が生まれ、さらに沖縄16c4c432.jpg 全土に普及した。また、共同店は地域コミュニティーの中心的な役割をも果たしている。

 いいね、こういうの。
 なんかほっとするものがある。
 もし、また沖縄に行く機会があったら、今度はどこかの共同店をのぞいてみたいと思った。のぞいてどうするかは別として。

 共同といえば、4人の邦人作曲家が共同で手掛けた交響組曲「東京」という作品がある。
 その4人とは三枝成彰、石井眞木、外山雄三、そして芥川也寸志。各人が1曲ずつ書き、4つ楽章から成る組曲ができあがった。
 
 そこで今日は、芥川也寸志(Akutagawa Yasushi 1925-1989 東京)の「アレグロ・オスティナート(ALLEGRO OSTINATO)」(1986)。この組曲の第4曲となる作品である。

  この曲について芥川は、初演時のプログラムに次のように書いている。

 私は1925年7月に、東京に生まれました。今の北区ですが、戦前は滝野川区と呼ばれておりました。私の生まれた家は、山の手線の田端駅から山手に登った所にあって、左右のお隣が日本画家と鋳金家という、芸術家の多い閑静な住宅地でした。
 私はその家でずっと育ち、戦前の2年前に、今の芸大、当時の東京音楽学校に入りました。終戦時は陸軍軍楽隊におりましたが、私が生まれ育った家は、空襲で焼けてしまいました。それからも、私はずっと東京に住んでおります。
 また、芥川家の先祖は徳川に仕えておりましたので、多分、私は生粋の江戸っ子といえると思います。その上、東京から離れて住んだことがありませんので、私の心や身体には都会というものが染みついてしまっていると思います。
 この曲は、とくに東京の何かを描写しようとしたものではありません。私のふるさとであり、これからも離れることはないであろう、わが愛する東京、そして私の心に染みついている都会というもののイメージをごく自然に画きながら、いわば“讃歌”として、また組曲の最終曲として作られたものです。


 東京もんじゃない、私や沖縄の人、さらに多くの県在住の方たちなんかには、ちょいとピンとこない?
 いや、ピンと来なくはないが、いかにもお坊ちゃまである。もし也寸志少年が田舎の学校に転校するようなことがあったなら、たぶん自家中毒になったことだろう。

 芥川也寸志は伊福部昭(Ifukube Akira 1914-2006 北海道)に師事したが、彼が師から引き継いだものはアレグロとオスティナートの考え方だという(今回紹介する作品の名前は、文字通りそのままのネーミングである)。芥川は伊福部の音楽を「ひとつひとつの音が、鋭く空間を削りとっていく」と言ったというが、それが芥川の音楽にも当てはまる。
eece6e27.jpg  そしてまた、土俗的でときに野暮ったささえある伊福部の音楽に対し、芥川の音楽は常に洗練された雰囲気を持つ。しかし、両者の音楽に共通なのは、どんな場面でもどこか悲しげであるということだ。

 私が持っているCDの解説書裏表紙に載っている芥川の写真。
 ビールを飲んでいるようだが、とても良い表情だ。そして都会的である。おしゃれだ。
 でも、どこか憂いがあるように思えてならない。私が彼の音楽から感じるものは、この写真から受ける印象に共通するものがある。

 CDは昨年Fontecから作品集が新たにリリースされたので、それを紹介しておく(演奏そのものは私が持っているものと同一。1986年ライヴ)。
 
 また、私が伊福部ファンとして芥川に感謝したいのは、指揮者としての彼の存在である。

 彼は、アマチュア・オーケストラの新交響楽団を1953年の創立から育ててきたが、1980年に伊福部作品の個展を開催、伊福部昭のブーム(というかルネッサンス)に多大な寄与をした。
 いや、彼がいなかったなら、未だに伊福部作品はこれほど広く聴かれるチャンスがないままかもしれなかった。

 ところで、12月8日に三木稔(Miki Minoru 1930-2011.12.8 徳島)が亡くなった。
 彼も伊福部の教え子で、芸大での「よりナショナルであることが、よりインターナショナルだ」という伊福部の教えを座右の銘とした。三木は邦楽器との関わりを強くしていたが、のちに伊福部が「交響的エグログ」に用いた二十絃筝を野坂恵子と協力して開発したのも彼である。
 私は三木の作品をきちんと聴いたことがないが、そして亡くなってしまってから言うのはなんだが、今後聴いてみたいと思っている。

 なお、伊福部昭の「二十絃筝とオーケストラのための『交響的エグログ』」について、現在入手可能な本名徹次指揮による盤を紹介しておく。

  伊福部 昭の芸術 6 交響的エグログ